2021/03/30

そのご(ノベライス・ウィッチンケア第11号)

一回休んだけど、ちゃんときましたよ。令和3年って、元号変わってからなんかいいことあったっけ?


ねえ、キミ。毎度おんなじ口調で唐突に現れるけれどもいくつになったんだっけ...と言いかけて僕は口を塞ぐ。「キミ」呼ばわりも「年齢を尋ねる」のも、アウトっぽい。元号が変わっただけじゃなく、社会のルールも変わりつつあるのだ。


「ほんとは安倍総理が東京五輪を大成功させて、その熱気が一段落してから発行する予定だったのに、世の中わからないもんだね。でもとにかく、見た目的にもかなりリニューアルした第11号ですよ!」

「おう...無事発行おめでとう。201041日創刊だから、けっこう長く続いてるんだね」

「今号もすでに、取次さんを介して書店さんに配本済み。いくつかの本屋さんでは、直取引で先行販売も始まってるから」

「きっちりやることやってるなぁ...オレはコロナ禍でメンタルが、ちょっと厳しい」

「そんな人にこそ読んで欲しい最新号になりました。病は気からって言うじゃない。とにかく、隅から隅までちゃんと読まないと殺しにくるからね」

「お、おう..。わかった」


いつものように僕を脅迫して彼女は去った。しかし、突然窓から入ってきて「殺す」とかって捨て台詞みたいに...こういうの、平成ならともかくいまポリコレ的にどうなのよ。まっ、いずれにしても令和最初の号か、と思いながら、僕はウィッチンケア第11号をじっくり読み始める。


表紙は...ずいぶん雰囲気変わったな。ロゴ、そしてエディトリアル面での変化は新たに今号を手がけたデザイナー・かむらまきのセンスに依っている。そして扉のクレジットには「写真=岩田量自」と。あっ、インスタグラムでは「ジョニー」が通り名の、気鋭の写真家だ。あれっ、前号まであった「すすめ、インディーズ文芸創作誌!」っていうキャッチフレーズはなく、ただ「文芸創作誌|volume 11」とだけ小さく。これはきっと「インディーズ」とか「オルタナティヴ」とかみたいな、「○○に対する」的な〈誌としての姿勢〉からの方向転換を表明している、のかも。


ページをめくると前号まであったwords@worksも消えマゼンダ一色の写真が。とくに説明はしませんのでとにかく掲載作品を読んでください、という〈誌としての姿勢〉かな、この変化も。


<目次>には、32の人名が同じ大きさで並び、各名前の下に掲載作品のタイトル。作品名より人の名前が上なのは、創刊以来変わっていない。




今号のトップは初寄稿のイラストレーター・オザワミカ。誰の「ご機嫌」についての一篇なのかは、読んでのお楽しみ。鬱々とした世の中を楽しく生きるヒントが詰まっている。次も初寄稿の長谷川裕TBSラジオ「文化系トークラジオLife」のプロデューサーが、こども時代に出会った、忘れ得ぬ人について語っており心に響く。久保憲司の作品は、前半の日常性が、後半ワールドワイドに飛躍して驚愕! やはり初寄稿のカツセマサヒコ。物騒なタイトルだが、ある種の静けさに貫かれたまま最後まで一気に読んでしまう作品だ。朝井麻由美の小説は、ユカちゃんの気っ風のいい独白に共感者続出か? 久山めぐみの精緻な映画論は、こんな時代だからこそ厚みのある視野で読んで欲しい作品。仲俣暁生の作品内にある「タイムスタンプ」という言葉は、テキストというものの意味を再確認させてくれる。小川たまかの穏やかな筆致のなかに込められた強い思い、多くのかたに届いて欲しい。柴那典は「バイラル」な時代を検証。タイトルがなにを指しているかは、プロフィール欄で明らかになる。長谷川町蔵の小説の舞台は町田。いずれ「あたしたちの未来はきっと」が増補版で刊行されたら、ぜひ収録してもらいたい一篇だ。トミヤマユキコはマンガという表現の可能性を示す一篇を。自身のスタンスをしっかり語っていて信頼できる。武田徹は日本語が内包している曖昧な表現形式を、世代間の齟齬も例に出して考察。谷亜ヒロコは自分の原風景である鷺沼を、2021年の目で思い出も交え語っている。初寄稿の清水伸宏は「ある事件に立ち会った編集者の独白」という形式での、虚実が謎な小説を。古川美穂は自身の介護体験を背景に、今年話題になった「あの人」への痛烈な一言を放つ。発行人でもある多田洋一の作品はじつに困った男が主人公だが、「福富」「麻耶」にピンときた人はウィッチンケアの愛読者に違いない。武田砂鉄はまたもや前号(そのまえも)と同じ、あの人へのインタビュー。確実に時代を反映している作風に「隠れファン」「ツボです」、との評判を発行人は聞いた。我妻俊樹の掌編は、やはりこのくらいのテキスト量だからこそ可能な、他所での作品とはひと味違った書き下ろし新作。藤森陽子は少女時代に出会った「まあちゃん」との逸話を回想し、昨今の世情を読み解いている。柳瀬博一の作品は、昨年刊行された『国道16号線: 「日本」を創った道』を読んだ人にぜひ届けたい、後日談的な一篇。自らも「東男」である中野純は、現在の町の風景をラティスの目(斜め)から捉え直している。美馬亜貴子の小説は、コロナ禍での体験も踏まえ、クールな作風ながら人間観察眼の鋭さが刺さる。東間嶺もまたコロナ禍の実相を、前号寄稿作で鮮やかな存在感を示した女性の「その後」的に描いた。宇野津暢子の淡く危険な恋愛小説には、ネット時代に「繋がること」へのためらい/期待が入り交じっている。荻原魚雷の古本にまつわる随筆では、コロナ禍を体験したからこそ「見えて」きた日常の意味が語られている。宮崎智之の作品からは男女の心の綾、そして恋愛感情の機微がビター&スウィートに伝わってくる。かとうちあきの作品はユーモアと辛辣さが絶妙。「あるある」な話だと楽しく読んでいると、核心をグサッと突いてくる。吉田亮人の一篇は写真家にとっての「対象とのディスタンス」について、身近な生活の中で再確認した瞬間を書き記した。ふくだりょうこの小説は、いまの時代の「男子」にとって、笑い話ではなくホラーなのかもしれない。ナカムラクニオの架空インタビューは、まるで目前にフロイトが生き返ったかのような錯覚をもよおしそう。木村重樹はロックバンド・KISSとの出会いの衝撃を、愛情たっぷりに多角的な視点で語り倒している。矢野利裕は中高一貫校の教員である自身の立ち位置から、コロナ禍を経ての「多様な個人」の育成について論じている。


32篇の書き下ろし後に、今号に関わった関係者のプロフィールを掲載。裏表紙を想起させる写真があって、その後に創刊号~第10までの表紙写真と奥付。表3からも以前はあったwords@worksが消え、マゼンダ一色の写真。


裏表紙の人間は、ポストコロナの世界へと向かっているのか? ……こんなに読み応えのある本が、じつは以前より値上げして(本体:1,300円+税)でして、みなさまごめんなさい。小誌を続けていくためのこととご理解くだされば嬉しく存じます。


それで、今回もまた繰り返すしかないのだが「ウィッチンケア」とは、なんともややこしい名前の本だ。とくに「ィ」と「ッ」が小文字なのは、書き間違いやすく検索などでも一苦労だろう。<ウッチンケア><ウイッチンケア><ウッチン・ケア>...まあ、漫才のサンドウィッチマンも<サンドイッチマン>ってよく書かれていそうだし、そもそも発刊時に「いままでなかった言葉の誌名にしよう」と思い立った発行人のせいなのだから...初志貫徹しかないだろう。「名前変えたら?」というアドバイスは、ありがたく「聞くだけ」にしておけばよい。


そしてそもそも「ウィッチンケア」とは「Kitchenware」の「k」と「W」を入れ替えたものなのだが、そのキッチンウェアはプリファブ・スプラウトが初めてアルバムを出した「Kitchenware Record」に由来する、と。やはりこのことは重ねて述べておきたい、とだんだん話が袋小路に陥ってきた(というか、いつも同じ)なので、このへんにて。


Vol.14 Coming! 20240401

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