2015/06/01

ウィッチンケア第6号のまとめ

Witchenkare vol.6

発行日:2015年4月1日
出版者(not社):yoichijerry(よいちじぇりー)
ISBN:978-4865380309
本体:1000円+税
http://www.facebook.com/Witchenkare
https://twitter.com/Witchenkare

“寄稿者37名の書き下ろし作品を掲載した文芸創作誌”
※各作品名をクリックすると「一部立ち読み」ができます!



CONTENTS

002……【目次
004……仲俣暁生1985年のセンチメンタル・ジャーニー
008……西森路代壁ドンの形骸と本質
014……開沼 博ゼロ年代に見てきた風景 パート2
020……姫乃たま21才
026……武田砂鉄キレなかったけど、キレたかもしれなかった
032……宇田智子富士山
040……吉田亮人写真で食っていくということ
046……野村佑香今日もどこかの空の下
052……大澤 聡流れさる批評たち──リサイクル編
062……若杉 実マイ・ブラザー・アンド・シンガー
070……中野 純つぶやかなかったこと
076……谷亜ヒロコよくテレビに出ていた私がAV女優になった理由
080……東間 嶺ウィー・アー・ピーピング
086……小川たまか南の島のカップル
092……西牟田 靖「報い」
098……久保憲司スキゾマニア
106……藤森陽子バクが夢みた。
112……井上健一郎路地という都市の余白
116……我妻俊樹イルミネ
120……木村重樹40年後の〝家出娘たち〟
126……諸星久美アンバランス
132……大西寿男before ──冷麺屋の夜
142……辻本 力雑聴生活
146……友田 聡中国「端午節」の思い出
150……出門みずよ苦界前
154……荒木優太人間の屑、テクストの屑
160……山田 慎パンと音楽と京都はかく語りき
164……三浦恵美子子供部屋の異生物たち
172……柳瀬博一ぼくの「がっこう」小網代の谷
182……長谷川町蔵サードウェイブ
190……円堂都司昭『漂流教室』の未来と過去
196……かとうちあきのようなものの実践所「お店のようなもの」
200……須川善行死者と語らう悪徳について 間章『時代の未明から来たるべきものへ』「編集ノート」へのあとがき
206……後藤ひかり南極の石を買った日
210……武田 徹『末期の眼』から生まれる言葉
216……美馬亜貴子二十一世紀鋼鉄の女
222……多田洋一幻アルバム
234……【参加者のプロフィール】

写真:徳吉久
アートディレクション:吉永昌生
校正:大西寿男
編集/発行:多田洋一
取次:株式会社JRC(人文・社会科学書流通センター)
http://www.jrc-book.com/list/yoichijerry.html 


【参照記事】
<「新文化」オンライン 2015年3月23日
http://www.shinbunka.co.jp/news2015/03/150323-03.htm 


おまけ〜ノベライズ:ウィッチンケア第6号 
ウィッチンケア第6号と88の言葉

 ※小誌は全国の主要書店でお取り扱い可能/お買い求めいただけます。
(見つからない場合は上記ISBNナンバーでお問い合わせください

★【書店関係の皆様へ】ウィッチンケアは(株)JRCを介して全国の書店での取り扱い可能。第5号だけでなくBNも下記URLのPDF書類で注文できます。どうぞよろしくお願い致します!
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2015/05/30

おまけ(ノベライズ:ウィッチンケア第6号)

 ……きちゃった、へへ。

 嘘のようなほんとうの話だが、さっき彼女が窓から僕に微笑んだ。えっ、そういうことってリアルで起こるんですか!? たじろいでいる間に部屋に入ってきて一冊の本を手渡された。なっ、なんなんですか!? 途方に暮れていると、彼女は「全部読んだら愛してあげる」。全部読まないと? と尋ねたら「殺す」と。じゃまたね。彼女が窓から出ていった。まだ死にたくない僕は本を読み始める。

 表紙には四つのグラス。写真家の徳吉久が、パリの北ホテルのカフェで撮影したものだ。あと、ご丁寧に「言葉いりますね」と。そりゃ本なんだからいるでしょう。

 ページをめくると、うっすら読めるwords@worksとの文字。作品の言葉、とでもいう意味だろうか。その下には脈絡のない文章の断片。対向面の写真にはUNE FABULEUSE SOIRÉE !!! と書いてあり、これはまあ「どうぞお楽しみください!」というくらいの感じ!? さらにページをめくると<目次>で、三十七の人名が同じ大きさで並び、各名前の下に掲載作品のタイトル。知ってる人もいる、知らない人もいる。

 若き日の旅の思い出を仲俣暁生が書いている。傷心のまま封切られたばかりの「コットンクラブ」を金沢で見たと。壁ドンについて西森路代が論じている。流行語となり形骸化したパフォーマンスの本質に迫っている。自身が見てきたゼロ年代の風景について記したのは開沼博。与沢翼やはあちゅうが意外な登場のしかたをする。続いて地下アイドル姫乃たまの初めての小説。年齢差のある道ならぬ恋愛を自分語りのように描いている。酒鬼薔薇聖斗と同い年の武田砂鉄は同級生とのキレたかもしれなかった思い出について紋切り型でなく書いている。富士山という題名の小説を寄せているのは宇田智子。多摩川や綱島温泉のような場所が登場する。吉田亮人は写真で食っていくことの難しさと楽しさについて。独立当時の逸話が再現されている。ロフォーテン諸島やブラジルへの旅の記憶を野村佑香が辿っている。旅を通じて自分自身と改めて対峙するかのように。流れさってしまったかもしれないテキストを書き留めた大澤聡はラジオで荻上チキと対話することも批評的行為だと語っている。若杉実は「渋谷系ならシゲ」と言われた男を主人公にした小説を書いていてミシンの音が聞こえてきそうだ。一連なりの長い文章で中野純がいろいろつぶやいている。やるときはしっかり電気を消してほしいと実用的な提案も含まれている。若い女がAV女優になるまでの物語を創作したのは谷亜ヒロコ。主人公は胸が大きい。お尻もいい。図々しくはないらしい。東間嶺はミロスラフ・ティッシーにまつわる小説を。猫とランチとカフェと大自然と中東の過激派が並列で扱われている。モルディブを舞台にした小川たまかの小説には不思議なカップルが登場してなかなか正体がつかめない。西牟田靖の初小説では未解決事件の真相を追うもの書きと和歌山県警OBの苦悩が描かれた。精神を病んだ父親を介護するため京都に移り住んだ男の物語を書いた久保憲司。作中ではレイシスト団体への抗議デモにもさらりと触れている。藤森陽子はピアノのレッスンや飛行機への乗り遅れが怖い。近年は靴のつま先が入らないという新手のトラウマにも見舞われている。吉祥寺ハモニカ横丁を例に路地を考察したのは井上健一郎。都市の余白について独自の見解が述べられている。我妻俊樹の小説にはおっかないものがたくさん登場する。右目がピラミッドで左目がおにぎりのニュースを読む男など。人生悲喜交々とランナウェイズへの愛を木村重樹が告白する。BiSやBABYMETALも木村の視野に入っている。諸星久美の小説では妻であり母である女の葛藤が描かれる。主人公は破滅に繋がる感情の積み重ねに自覚的だ。20年間言葉にできなかった思いを小説にまとめた大西寿男。元祖平壌冷麺屋本店は神戸の新長田駅近くにある。雑聴生活について考察した辻本力はデプレッシブ(鬱)・ブラック・メタルというサブジャンルを堀りながらも鬱々としているわけではない。上海で暮らした際に旧暦の五節句の意味を肌で感じた友田聡は昨今の「行事続き」の風潮に警告を鳴らす。まだ句会に参加した経験のない出門みずよだが今号では我流で四十四句ほど詠めりけり。荒木優太は在野研究者として専門分野の小林多喜二「党生活者」を題材に屑について持論全開。自分はなぜパンに魅せられたかについて書いた山田慎は年間300軒以上の店を訪れている。子供部屋に出没する異性物についてさまざまな作品を解読した三浦恵美子はセーラームーンやまどマギはまたあらためてと。「流域」という視点の大切さを提示した柳瀬博一は併せて自身の「がっこう」である小網代の谷に棲息する魅力的な生物を紹介。長谷川町蔵は町田の仲見世商店街を舞台にした小説で超絶美少女からワイプアウトした少女の生活を描く。円堂都司昭は漂流教室とはだしのゲンを再読し現在の視点で作品の意味を問い直した。東京でのオリンピックまであと5年。お店のようなものをのようなものの実践所として始めたかとうちあきは家賃問題に戻るきょうこの頃。間章の著作集全三巻を完成させた須川善行は「チューブラー・ベルズ」のスリーヴにあった「間章」という文字を当時「序章」「終章」みたいなものだろうかと。後藤ひかりは骨董屋の店頭の木箱で見つけた南極の石を買った日のことを。携帯電話の画面の裏側に赤い四角がびっしりと集まる。橿渕哲郎の仮歌ハミングについても武田徹は「末期の眼」という観点から考察。かつて自身が書いた「ムーンライダーズ詩集」書評にも言及している。ブラジリアンワックスを題材にした美馬亜貴子の小説は主人公の身体感覚が伝わってきて読者のあらぬ想像力を刺激。そして悪い男が素敵なお姉さんを騙す話にはなんだか海辺の集落に由来する苗字の登場人物がってなんでそんなことわかるかって言うとこれ書いた多田洋一って、あれ!?

 さらにページをめくると寄稿者やAD吉永昌生など制作関係者のプロフィールが掲載されている。百四十文字はツイッターの字数で、わりと自由な書きっぷりから人柄が垣間見える。奥付には前号までの表紙素材になった写真が配され、この本の発行元が東京都町田市であることもわかる。さらに、またうっすら読めるwords@works。そして、その下には脈絡のない文章の断片(←これらはすべて作品内の一節/もし帯が付いていればそこに掲載されていたかもしれない)。裏表紙もパリの北ホテル……こんなに読み応えのある本が税込み1,080円なのには驚いたし、ISBNで取次会社や注文方法も判明した。さらに聞いたところによると、どうやらいますぐにアマゾンでBNも含め購入可能らしい(かなりステマ/ネイティヴなんとかになってきたのでこのへんで)。

 とにかく、これで殺されることはないだろう。本を閉じた僕は窓を見つめる。きっと彼女はやってくる。もしかすると来年の春、次の号を携えてかもしれないけれど。



【敬称略にて失礼致しました!】

2015/05/29

vol.6寄稿者&作品紹介37 多田洋一

※今回の多田洋一の寄稿作については、三浦恵美子さんが紹介文を書いてくださいました。感謝!

意外に(…と言っては失礼にあたるのかもしれませんが)、多田洋一さんの作品群の通奏低音は、「ハードボイルド」だと思うのです。どこが「ハードボイルド」なのか、というと。語り手である「僕」のまわりには主に三種類の女性が存在しています(乱暴なくくりですみません多田さん)。一番目には、名前の呼び捨てで表記される女性。彼女と僕は、現在は別れているとしても過去に深い絆で結ばれていたことがあり、僕は今も、どこか彼女への思いを残している。二番目に、名字の呼び捨てで表記される「女(おんな)」。ある種の関係を結んだことがある(結んでいる)(結ぶだろう)にせよ結局、現在の僕にとっては関係が浅くて遠い、あるいは、‘都合がいいだけ’の相手。三番目に、名字に「さん」付けで表記される女性。僕にとって「他者」である女性です。この他者としての女性が物語の中心にフォーカスされる場合、彼女は、性的関係があるにせよないにせよ、僕との間に絶妙の距離を保ち、緊張感を帯びた存在として立ち現れてくる。三番目の女性がメインキャラクターとして登場するのは、ウィッチンケア第1号掲載の中編『チャイムは誰が』(「鉦田さん」)と、今回第6号の『幻アルバム』(「由比野さん」)です。そして、この中の二番目の類型の女性、つまり女性というより「女(おんな)」として名字を呼び捨てにされる存在、あるいはただ「(どこどこの)女」と呼ばれるだけの存在が、前景にせよ後景にせよ多田さんの作品の中には必ず顔を出すというところに、私は、かなり強い「ハードボイルド性」を感じるのでありました。あと、「僕」によるモノローグの、どこかひっかかりの多い、ラップ調(!?)とも内省的ともいえそうな‘癖’のある文体もまた、文字通り、ではないかもしれないけれど「ハードボイルド」だなあ、と。

ちなみに、いちばんハードボイルド度が高いと思ったのは第2号の『まぶちさん』かな。逆に、第三の類型の、名字に「さん」付けの女性がメインキャラとして登場する作品は、ハードボイルド度は低い。特に、文体の角がとれて平明になった最新作『幻アルバム』では、代わりに、多田さんの作品の「基本モチーフ」が、大々的に、シンプルなかたちで前面に出てきた感があります(勝手に「基本モチーフ」なんて言っちゃってごめんなさい!まぁ、言わせといて下さい)。

語り手である「僕」は、過去に悔恨の根を残していて、今、屈託を抱えて生きている。まるで喉にささった魚の骨みたいに生理的にも心理的にも煩わしく厄介な「過去」を、今、いかに清算するか。それが、多田さんの作品の骨格となっている基本モチーフだと思うのです。たとえば第1号『チャイムは誰が』だと、「過去」とそこからの解放を象徴する鍵は、遠い昔パソコン通信の会議室でかすかな交流を持った「SD」というハンドルネームの‘女性’なのだけれど、いくつかのトラップ、いくつかの錯誤を経て、「決着」ははぐらかされる。第3号『きれいごとで語るのは』だと、「過去」を清算しようとしているのは語り手のかつての彼女であって語り手ではなく、語り手はといえば思いがけず事態に巻き込まれ傍らで傍観しつつ逡巡し、最後は‘逃げる’役どころ。第4号『危険な水面』でも同様に、錯綜する事態に‘巻き込まれた’語り手は、最後に‘逃げる’。第5号『萌とピリオド』では、決着をすり替えた果てに偶然が重なり、肉体的な痛みと変形を伴って、「過去」と「未来」が「断絶」する。ところが最新号(第6号)『幻アルバム』では、語り手「僕」がきっぱりと「過去」と縁を切り、まだ見ぬ「未来」へと舵を切る過程が描かれる。

どうしようもない鬱屈とそこからの解放をめぐって、「僕」のモノローグが繰り広げられる。そこにちりばめられるのは、具体的な街の風景、店の名前、事件の記憶(これらは「暗示」されるだけの場合も多い)、そして、音楽をめぐる固有名詞群。取り返しのつかない「時間」の痕跡が集積し、その先に、「未来」への手掛かりがかすかに浮かび上がる。

多田さん、特に3号以降は、他の寄稿者と同様のかなり少ない字数でしか作品を書いていないようですけれど、第1号『チャイムは誰が』、第2号『まぶちさん』あたりで垣間見える「構成力」は、中編以上で初めて真価を発揮するのでは。ぜひ、発行人の特権で、次回以降はもう少し長いのを書いて下さい〜。てなところで。
 【文・三浦恵美子


 チェックアウトしてタクシーで吉祥寺に向かった。高井戸ICの近くで渋滞に巻き込まれた。沈んだ目で窓の外を眺めていた彼女が突然の笑顔で僕に言った。
「ほんとうにいいアルバムをつくりたかっただけ。あの頃はそれで世界が変わると思った」
 そしてすぐにまた押し黙った。
 たぶん僕は「ですよね」とこたえたはず。でっ、それはかなりの本音だった。アルバムという単位にこだわるのはバンドサウンドへの固執と同じで彼女のスクエアさだと思ったけれど、とにかく彼女は音楽をつくりたかったのだ。トレント・レズナーやリチャード・D・ジェームスも最初はTシャツやキーホルダーやトートバッグなんかじゃなく世界を変える音楽をつくりたかっただけ、といまも僕は信じている。
 彼女にはできなかった(そして僕は彼女の企みの役に立たなかった)。世界は世界を変えられる人にしか変えられない。世界を変えられない人が世界を変えようとしても手痛く傷つくだけ。世界はびくともしない。


ウィッチンケア第6号「幻アルバム」(P222〜P234)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
チャイムは誰が」/「まぶちさん」/「きれいごとで語るのは」/「危険な水面」/「萌とピリオド

2015/05/28

vol.6寄稿者&作品紹介36 美馬亜貴子さん

小誌前号への寄稿作では還暦を迎えた独身女性を主人公に、SNSでの心の綾を描いた美馬亜貴子さん。創作では敢えて自分とは距離のある人物を登場させ物語を組み立てているようで...そこが作品のクールなおもしろさに繋がっている印象を受けます。谷亜ヒロコさんの作品と読み比べると、どちらの主人公も悲惨な目に遭いますが、その質感が微妙に異なる(一人称と三人称の違いだけではない感じがするのです)。泥舟一蓮托生 VS その船、底に穴が空いてますよ、みたいな。...ちなみに、今号寄稿作のタイトルは、昨年美馬さんが制作した<念願のムーンライダーズ本『Ciao! ムーンライダーズ・ブック』>と関連あり。1982年のアルバム「青空百景」収録の「二十世紀鋼鉄の男」にインスパイアされたようで(僕はワックス〜♪)、うーむ、小誌今号の隠れテーマはムーンライダーズ?

マチコさんって20代後半に入ったくらいの設定なのだろうか。まだ経年変化(老化)に怯えている様子はないし、婚活をしているわけでもなさそう...でも<自分が、ブスではないが別段可愛くもない「平均ど真ん中」の女であることを自覚してい>るんだけれども、それでは嫌でどこかで(なにかで)他の人に「勝ちたい」...<気がつく人だけが気がつけばいい>程度でも「勝ちたい」。<街で美人とすれ違うとき、「あの人のかかとより、絶対私のかかとの方がキレイ」とか〜>のくだりを読んで、勉強になりました。そうか〜、女の人は女子会とか楽しそうにやってるけどみんなライバルでもあるんだ〜、みたいな。美容関係の広告、多いわけだよな〜。

さて本作重要課題、ブラジリアンワックス。私は最初これがどうにも実感できず...自らに引き寄せて理解しようとすると、髭剃りかかつて手術時に体験した剃毛しかなく、それじゃ2〜3日でチクチクするじゃない、と。そんな疑問を文学的必然として作者にも投げかけますと、作者もまた私の疑問を理解してきちんと回答してくださったり、文章を推敲してくださったり...しかしそのやりとりって「あの、<リカちゃん人形の「そこ」のようになめらかでつるつる>で、<ほどなくして、マチコに久々のボーイフレンドができた>とありますが、この<ほどなく>ってどのくらいでそのときの「そこ」の状態なんですけど、...あとチクチクし始めると「そこ」は...」みたいな(泣)。

オレってミマさんにセクハラしてないか、と怯えたことを告白します(失礼しました!)。と同時に、ネット上の世界のヴイ・アイ・オー施術見た(日本だけじゃわからなかった疑問氷解)!! ...しっかし、作品内でマチコからこてんぱんに言われているススムですが、たぶん彼は「一番訊いちゃいけないこと」を訊いたんだろうな。「勝った」結果としてあなたとそうなったんで<俺のため>だったら「負け」じゃない、なのか? マチコの敵はススムでもライバルの全女性でもなく自身の自尊心...自尊心のためならVIO晒すくらい...いまの私はこの時点で「本末転倒では?」と思っちゃいますが、でもそれを嘆かず、美馬さんを見習って世の移り変わりをおもしろがります〜!


 わりと落ち着いた気分で施術台の上に横たわった。あらかじめ2〜3センチほどに毛を切られる。下腹部に感じる生温かく、どろっとした感触は想定の範囲内だ。ワックスを塗って、固まったら一気にはがすわけだが、これは実際、思っていたよりもずっとずっと痛かった。21世紀の最先端都市・東京で、信じられないほど原始的な方法で毛を抜いている私──ものの20分ほどではあったが、痛いし、恥ずかしいし、その時間は実際よりもずいぶん長く感じられた。

 しかし。
 終わってみたら、冗談じゃなく、世界が変わった。
 なんだろう、この自信。背筋が伸びる感じ。もちろん他の人には決して見られない部分だけど、「こんなところにまで気を抜かない私」という自意識に、ものすごくアガる。入浴の度に鏡に映して見る「ヴイ・アイ・オー」は、子供の頃に遊んだリカちゃん人形の「そこ」のようになめらかでつるつるだ。非日常どころか非現実の域にまで及んだ自分の変化に、マチコは満足した。これまで行なってきたどんな美容法よりも「やってやった」感がある。きっと誰も、こんな地味なOLが、こんなところの手入れをしているとは思わないだろうな。なんたって〝最先端〟よ。ふふふ。そう思っただけで心が果てしなく高揚する。

ウィッチンケア第6号「二十一世紀鋼鉄の女」(P216〜P221)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
ワカコさんの窓

2015/05/27

vol.6寄稿者&作品紹介35 武田徹さん

武田徹さんの今号への寄稿作は橿渕哲郎やムーンライダーズの曲(詞/詩)を、唐木順三の「詩と死」(第七版)で言及されている川端康成の<『末期の眼』という短い文章>を手がかりに考察したもの。ええと、少しややこしいですが、「末期の眼」という同文のタイトルは<芥川龍之介が自殺直前に残した『或旧友へ送る手記』>のなかの一節「けれど自然が美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」に由来。唐木は「詩と死」において、川端が芥川の一節に対し<あらゆる芸術の極意はこの『末期の眼』であろうという感想を添えている>ことを紹介し、それに賛同して自説を展開。そして武田さんは、芥川→川端→唐木(経由で時宗の開祖・一遍にも迂回)とバトンを受け継いで...。

「末期の眼」とはなにか。作品内ではさまざまな言葉が紹介されていますが、一番わかりやすいのは唐木から引用した<生を死から把え、即ち、はかなく、あわれな存在として自己をとらえ、そのあわれをいとおしみ、つかの間の命即ち存命の不思議を、中世人たちはその詩歌や随筆やまた語録で示している>の部分でしょうか。武田さんは橿渕哲郎やムーンライダーズのいくつかの曲をピックアップし、「末期の眼」という視点から具体的に読み解き直しています。ライダーズファン、そして昨年発売された「かしぶち哲郎 トリビュート・アルバム 〜 ハバロフスクを訪ねて」に魅了された人には、深く沁み入る内容だと思います。

今作でもあらためて感じましたが、武田さんの言葉に対するスタンスは懐が深いです。ある言葉はある意味に対応、といった自動翻訳的な理解ではうまくいかないことも視野に入っていて、「その言葉がそこで選ばれた背景」にまで思いを馳せてコミュニケーションに臨むというか。そんな武田さんの姿勢を、先日おこなわれた開沼博さんとの対談でも私は勝手に感じ取っていました。そして晶文社のHPで始まった連載「日本語とジャーナリズム」は、いったいどこに着地するのか!? 同連載内の<人間(の上下)関係>や人称の話...自分が普段無自覚でいることにも気づきました。

下記引用内にも出てくるムーンライダーズの〝Who's gonna die first ?〟という曲、私もアルバムリリース時にリアルタイムで聞きましたが、あれから四半世紀経ったのか。当時はなんか、音はジーザス・ジョーンズあたりと張り合う気満々なデジロック、なのに歌詞はヤケクソ気味、と思えた...でもいま聞くとその「ヤケクソ」に凄みを感じます。印象的なサビも耳にこびりつきますが、30を越えたばかりの頃は耳に入ってこなかった「どうせ クッションかソファみたいなぼくだ」ってな箇所が引っ掛かったり。そして、武田さんが以前イベントで仲俣暁生さんの「今後会いたい人は?」という質問に、鈴木慶一さんと答えていたことも思い出しました。


 しかし「「捨てる」ということをあれほど徹底させたこの「捨聖」も、三十一文字、また日本語の音律だけは捨て得なかった」。それを唐木は責めない。三十一文字の音が連なるリズムこそ「全存在がひとつの情緒的形姿をとって現れる」場所であり、「ここが詩(ポエジイ)の誕生するところ、物皆がその本来の面目を発揮するところだ」からと唐木は書く。

「末期の眼」とは喪失を予期して世界を見るまなざしだ。出家、脱俗した宗教者はみな末期の眼を持つといえるが、総てを捨てようとした一遍は特にその傾向が強い。しかしそんな一遍が総てを捨てようとした果てに詩を口にする。そうして喪失の中に現れる言葉とリズムこそが本物の詩なのだ。
 先に紹介した『ムーンライダーズ詩集』は、今にして思えば「たかが」結成10周年記念の刊行だった。その後、バンドは20周年、30周年と生き延び続け、最後の晩餐と、永遠に続くはずのないメンバーの命を重ねあわせて〝Who's gonna die first ?〟と歌う曲すら作る。そんなライダーズのライブでは、たとえば「Don't trust anyone over 30」は、歌詞の「30=thirty」の部分を齢を重ねるメンバーとファンを揶揄するかのようにforty、fifty、sixty と換えられて歌い継がれるのだ。スタンディング状態の観客がそんな替え歌を楽しげに合唱する様子は、まるで声を合せて念仏を唱え、踊る時宗の衆生たちのようではないか!


ウィッチンケア第6号「『末期の眼』から生まれる言葉」(P210〜P215)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
終わりから始まりまで。」/「お茶ノ水と前衛」/「木蓮の花」/「カメラ人類の誕生

Vol.15 Coming! 20250401

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