2014/05/31

夏の会議!?

あっ、5月はまだ1日あるのでした。じつは具体的なことが決まっていないのですが、小誌に関係したイベントを、夏のうちに開催しようと思っています。ごく小規模で会議/意見交換的なものになりそうな...。

詳細は追ってお伝え致します!

2014/05/30

34作品&寄稿者の紹介を終えて

31日で34作品。最後は駆け足でしたが、これでやっと、昨年秋には「A4ペラ箇条書き」だったウィッチンケア第5号の<媒体概要>ができあがった、との思い。あとはこれらを見やすくした<まとめ>をアップすれば...。

各紹介文については、とにかく多くのかたが一部引用部分を「立ち読み」してくださること、切に願います。それでは私の書き添えた文章は!? 寄稿者の人となりを知ってもらうことに少しでも役に立てば...評論/解説的なものではありませんので(それにしても与太話が多すぎた、と反省!)。

おかげさまで今号は、いままで以上に幅広い方に届いたような手応えを感じています。一番わかりやすい「ものさし」はたとえばアマゾンでの売り上げで、これは発売日から「在庫切れ」になったりとモヤモヤする展開が多かったのですが、それでも号を重ねるにつれて良くなってきました。

拙文を書くにあたり、あらためて小誌第5号を読み直して感じたのは、やはり発行人にとって各作品が「どんなジャンルに属するのか」は、あまり気にならないということでした。また与太話で恐縮ですが、私はiTunesの音楽を「ジャンル」ではなく★の数による「スマートプレイリスト」のシャッフルで聞いていることがほとんどでして、小誌発行とは「★★★★★!」を選択することと同じ。


 ですので、掲載作が詩でも小説でもエッセイでも評論でも...それで、では★の数はなにによって決まるのかというと...はい、ですので私が「寄稿依頼〜誌にまとめる」という判断をしている以上、さらに掲載作を評論/解説するのは屋上屋を重ねるような気がします。願わくば、小誌にフラットに接した人の批評や分析を聞きたい/読みたい。

今後も創刊号〜第5号ができるだけ多くのかたに届くよう動いていく所存です。現時点での自分の課題は、「★★★★★!」のコンテンツをもっともっと多様な回路に「繋ぐ」こと。ここが弱点だとの自覚があり、そのためになにをすればいいのか...考えながら走ることが、今後の「のびしろ」の発見になるかもしれません。

月が改まったら当ブログに<第5号のまとめ>を掲載する予定ですが、それまでは下記URLをまとめ「立ち読み」ツールとしてご利用ください。今後ともウィッチンケアをどうぞよろしくお願い致します!

http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/25

vol.5寄稿者&作品紹介34 出門みずよさん

前号には出門みずよ×中野純さん名義で「天の蛇腹(部分)」を寄稿してくださった出門みずよさん。今号ではソロ活動での書き下ろし掌編を掲載しましたが、しかし出門さんの執筆活動はとてもややこしくって...いったいいくつの名を持っているのでしょうか?

たとえばイタクラヨシコ名義でユーモア恋愛小説「ダメじゃん、蟹江クン!」を発表したり、産経新聞朝刊文化欄コラム「断」のレギュラー執筆者だったり。瀧浦ベアトリ名義では噺家を紹介するコラムを書いたり、かつてマガジンハウスが発行していたポルノ雑誌「HEAVEN」に「電気女」という作品を発表していたり(『歓喜まんだら : The very best of「heaven」/藤沢周 編』として書籍化)、さらに板倉克子名義では翻訳も多数...さらにさらにじつはパーカッショニストで...詳しくはここをご参照ください!

「よき日にせよとひとは言う」はかつて高級娼婦として国際的に活躍(?)していた、入間かずみの物語。スイスのエージェントに提出義務のある書類作成のため診察を受けた医師・米原と、「チェーン・オブ・フールズ」(愚か者の鎖)という“大人の交際術”によって数奇な再会を果たし...いやいや、この米原さんがダメな雰囲気、さらにボロボロになっていく感じが淡々と綴られているのですが、なんというか、ちょっとまえに流行語になったリケジョが実験動物でも観察記録に残しているようで、読んでいてお尻がムズムズします。それに比べてかずみさんの、やんわりしたタフさときたら。

再会した米原さんは「ぼくは、つねに自分が得になるように考えてしまうんだ。相手の立ち場に立てないんだ。いつもいつも、そう」と、かずみに自分がダメになった理由を語ります。...そんなこと打ち明けられたってねえ、ですが...しかしある種の賢さ(小狡さ)を備えていて、しかもその自覚があるまま鈍感を装ってそれなりに突っ走ってきちゃった人って、(性別に関係なく)けっこう脆いような気もします。でっ、うろたえ始めると「この私がうろたえている!」みたいにパニック...だからやさしくしてあげましょうよ。頬にキスしたり、ご機嫌伺いしてあげたり、Have a nice day! って元気づけてあげたり。

 セックスを求められない高級娼婦なんて、クビまちがいなし。転職して半年で干されたと思っていたら、それどころか、その秋からかずみの報酬は倍に上がった。

 そのかわり、フィンランド人実業家Pはカズミともっと経済の話をしたいので、「最低でもエコノミストとファイナンシャル・タイムズ、そのほかにもう一種類、アメリカの経済紙誌に目を通すことが望ましい」とダビーナから学習勧告が舞い込んだ。ちなみに、かずみがPとEの双方から最高得点を得た項目は「会話力」「ユーモアのセンス」で、「広い好奇心。とりわけ人間への興味と洞察が深い」との評価を得た。和装ができることも高ポイントだった。ただ、Pからは、「寝起きが悪く、午前中を効率的に使えない」とお目玉も食らっていた。
 とにかくそんな事情で、かずみはもう、あの、ビジネス街でも繁華街でも住宅地でもない東京の真空スポットの緑道をたどり、米原がいれた挽き立てのコーヒーを真っ赤なカップで飲むことはなくなったのである。
 かずみはにわかに多忙となり、Pが日本滞在用に借りている恵比寿のマンションや札幌のホテルに滞在したり、Eが仕事でヨーロッパやアメリカを訪れる際に同伴したりすることが増えた。
 ただ,彼女は一度だけ米原を思い出した。札幌滞在中、ベッドでPが見慣れない遊び道具と変な匂いのローションを使ったせいでかゆみが起き、米原に診てもらうことを考えた。しかし、まもなくその症状がおさまるにつれ、忘れてしまった。

 翌年の六月半ばのことだった。ブラジル人音楽家Eがアメリカとカナダで講演とワークショップを行なうツアーに同行中、Eの妻が心臓病で倒れたとの知らせが入り、Eはツアーを返上してサンパウロにもどることとなった。その報告や、単独行動になってからの経費の件でスイスのダビーナにメールを送ると、返信の最後に、単発アカウントの打診があった。
「売れっ子のカズミへ!
 あのフィンランドの屠殺王は、九月まで日本を訪れない。イレギュラーの仕事を入れる気はないですか?
 ロンドンのミスターLを覚えている? 彼はいまトーキョーに滞在中でまもなくロンドンへもどるが、三日間以上のホームステイはどう?
 さらにそのあとは、ミスターLのご友人が、〝チェーン・オブ・フールズ〟をご所望。スペインへの長旅になるとのことで、期限は決まっていません。
 あなたがもうピルを飲んでいないことは承知のうえでの打診ですが、アジアのインテリは総じてお行儀がよいので、問題ないのでは? 可能ですか?」


ウィッチンケア第5号「よき日にせよとひとは言う」(P230〜P241)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介33 岩崎眞美子さん

つい最近はポール・マッカートニーの公園中止なんてことがありましたが(私の財布にはいまも5/18のチケットが入っていますが)、岩崎眞美子さんと私は1996年に「The Blue Nileの来日公演中止くらった」仲間でして、あれは残念だったなぁ。The Blue Nileについては、じつは昨年さらに高橋宏文さんとも「Paul Buchananの来日公演中止くらった」仲間になりまして...同じポールでも2分の1の確率で観られるマッカートニーさんは、優等生。

和ごよみで楽しむ四季暮らし」等の著書がある岩崎さんは、音楽/映画をはじめ幅広い分野でライターとして活躍しています。自身の金縛りや幽体離脱体験をもとに、身体と意識のリズムを「波」になぞらえて考察した寄稿作「波のリズム〜心地よい死へのレッスン〜」は...これを読めば死ぬことが恐くなくなる!?

しかし岩崎さんがそんなに何度も金縛りを体験していただなんて...しかもうまく波に乗って<エクスタシーと言っても良いような感覚>を得る!? 私は根っからの幸せ者なのか、縛られ始めるとなんとなく「おっ、オレはいま夢を見てるんだな、これは夢だ」という意識が夢に混ざり始めて「どうぞ煮るなり焼くなりご自由に」と夢の進行に委ねてしまうことが多く(幽体離脱ならぬ幽体放置プレイ)、しかも目覚めるとだいたい忘れていて、頭のなかはすでに朝ごはんのことで一杯という。。。

作品の最後あたりの<睡眠を、日々訪れる短い「死」のレッスンのようなものと考えれば>という一節が、なんとも後髪を引きます。...そうか、今日からきちんと机を上を片付けて寝よう。そして思い出したのは、過去に数回経験した全身麻酔(ここ数年でも3回...)のこと。なんというか、強制終了で一時的に“殺されちゃう”わけでして、ほぼ無事帰還できると思いながら同意書にサインして“逝く”わけですが(「麻酔入れます」と言われるとがんばっても数秒でホワイトアウト)、でも心のどこかに「もう帰ってこないかもしれないし」というワクワク感が宿っているのは、私の性格の問題!? さらに麻酔の切れた病室で、痛みというバッドトリップに呼び起こされると、「生きてやがんの」みたいな、ほんのり残念な「生の充実感」も味わえたりして...不謹慎。

 以来、私は金縛りが来るのを密かに楽しみにするようになった。金縛りの「波」は1、2回、多いときなら、5、6回は連続して起こる。その波と波の合間のタイミングで体を動かすと、奇妙な身体感覚が味わえるのだ。また、苦しいものと決めつけていた金縛りも、「波」が来たときに恐れて避けようとせずに、体をリラックスさせて受け入れると、実に心地良い、エクスタシーと言っても良いような感覚を得ることができるのだ。自分と世界を分ける境界線がなくなり、心身の感受性が無限大に敏感に、広がっていく感じ……。
 この感覚は何なのか。大学時代、当時流行していたジョン・C・リリーやティモシー・リアリーなどサイケデリクスや変性意識の本、脳科学本などを読みあさったが、そこに書いてあることと金縛り時の自分の脳で起こっていることは同じなのではないかと直感した。その後、旅行先のオランダで、当時はまだ違法ではなかったマジックマッシュルームも食べてみた。その時一番に思ったのは「ああ、私はこれ、キノコ食べなくても自分の体だけでできる!」であった。
 何を突拍子もないことを言ってるんだか。と自分でも思うが、少し整理したい。例えば睡眠時の脳は、いわば「現実はこうである」というタガが外れた状態だ。当然、その脳が見せる夢も奇想天外な内容になることが多いし、それをコントロールもできない(夢を夢と自覚する「明晰夢」ではそれも能)。しかし入眠時の脳は、タガはすでに外れているにもかかわらず、かろうじて意識でそれをコントロールできる状態なのである。
 ドラッグ体験では「バッドトリップ」と「グッドトリップ」があるというが、金縛りもそれと同じだ。つまり脳のタガがはずれて、肉体との連携がうまくいかなくなったとき「怖い!」「苦しい!」と思えばそのモードが拡張されますます苦しくなる(金縛り)。しかしかろうじて残る意識を自分でうまくコントロールし、リラックスしてその波を受け入れれば、非常に心地良く多幸感に満ちた状態に自分を持っていくことが可能なのだ。


ウィッチンケア第5号「波のリズム〜心地よい死へのレッスン〜」(P224〜P228)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介32 東間嶺さん

「《辺境》の記憶」の寄稿者・東間嶺さんとは、第4号寄稿者・橋本浩さんを介して知り合いました。東間さんはウェブ・オピニオン空間「En-Soph」の編集管理人。ネット上でも積極的に発言していますが、じつは私は、東間さんが「言論の箸休め」的にアップする料理関連のツイートとか、けっこうファン。同年代の寄稿者・辻本力さんとどっちの料理ショー(古!)みたいなことやったら、すごい高レベルだと思います。

東間さんは作品内で「決定的な経験」として<自分が世界を表現するに足る特別な《メディウム/媒介》として、《ことば》という手段をはっきりと意識化、対象化し得たということ>と書き表していまして、なかなかスタイリッシュな文体なのですが、これはざっくり言い換えると「オレのブルースはやっぱりストーンズでギター弾くことなのさ、ロックンロール!」(By キース・リチャーズ/もちろん私の創作発言)、みたいなニュアンスなのでしょうか。。。

そして作品の冒頭に登場する<書き終えられた二万七千字弱の小説>...これは戸籍名義で「多摩美文學」(青野聡教授退官記念号/2014年3月20日発行)に納められた「≠ ストーリーズ」という作品。小誌掲載作と併せ読むと、東間さんの《ことば》や文章、そして「書くこと」への繊細な意識がより伝わってきます。1957年のハバナを舞台に始まる《〈史実〉ではない革命をめぐるクライム・ノヴェル》はめぐりめぐって新宿の喫茶室ルノアールや金井美恵子の皮肉へと回収...いや全然回収はされていないか...でもこの物語が断念されなければ、<きっと、そう、そういうことだ>と最後につぶやいた男もまた、さらにメタな物語の一部になっていくのかな? 作品内に登場した「文学的浣腸(仮)」という言葉が、妙に心に残りました。

《ことば》についてはそれほどむかしでもないむかしに「ちぇっ」と思ったことがあってそれは「ものごころつくまえに自分で言語が選べたらよかったのに」ということででもそれはべつに「英語が選べたらもっと国際人になれたのに」みたいな意味ではなく、私(←とりあえず便宜上)が私について書いたり喋ったりするさいにはすでに借り物である「私」かそのバリエーションである「僕」「オレ」「あっし」などしか選択肢がないとあらためて気づいたということで...まあ人間はいつどこで生まれて死ぬかも自分で選べないからそれでがんばるしかないんですが(このへんのことはきちんと書物になっていて、きっと私が知らないだけ)。

 それはちょうど院生になった時期で、まずまずの手応えとそれなりの成績評価を得た卒業制作を元にしたギャラリー展示も決まっていたのだけど、同時に、それまでの在学中、しばしば指導教官たちからの講評で「作品より、きみ自身の考えとか発言とかふるまいの方が面白いよね」とか「言ってること、考えてることと、実際作ってるものとのあいだにズレというか、距離があるという印象なんだよね」などと、「要するにお前の作品ってなんかつまらないよね」と言われていたことの内容が、どうもかなりクリティカルな指摘なのではないか、と自分でも薄々思いはじめていた時期でもあった。

 当時のわたしは鉄や木や皮布の箱に入った手のひらサイズのミニチュア絵画を、当時の恋人(多摩美生)の献身とやりがいと労働力を吸い取りながら二人でせっせと作っていたのだけど、そうやってアウトプットした《もの》と自分とのあいだに横たわる違和感というか、不自然さみたいなものはだんだんと増すばかりだった。作った《もの》に対して、どうしても言葉を費やすことを止められない。これはああでこうで、こうでああなんですよ、というエクスキューズがどうしても止められない。なら、最初から、これはああでこうで、こうでああなんですよ、と言うだけでオッケーなのではないか?
 そんなとき思い立ってゼミへと参加し、《ことば》だけを対象化した《ことば》が飛び交う空間で、《ことば》によって自分を語り、世界を描き、彫塑し、物語することへ次第に熱中していった結果、二年経って院を出るころには鉄や木や皮布の箱に入ったミニチェアたちはアトリエの隅で冷温停止状態に置かれ、わたしは代わりにせっせと楽しく小説を書くようになっており、さらにゼミの発行する冊子の編集責任者までしていて、ついでに恋人からは縁を切られていた。

ウィッチンケア第5号「《辺境》の記憶」(P218〜P223)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/24

vol.5寄稿者&作品紹介31 希屋の浦さん

仙台を拠点に創作活動を続けている希屋の浦さん。前号にはかなり恐い「朝の所在」を寄稿してくれましたが、今号には「奇会的純情観測」という、一目惚れについての掌編を...一目惚れ(遠い目)...中学生のころは、転校生の女の子がかわいかったりすると、それは大事件(なにかを思いだして、さらに遠い目)。

作品内の、誰が誰をどの局面でどう呼ぶのか、は県立白陽高等学校の問題だけではなく、この国の人間関係の問題でもあると思います。この国、そこんとこめんどくさい〜。石原慎太郎さんくらいに確信犯でそれをやってると(総理を現役時代に「小泉君」「純ちゃん」と呼んでた)、まあ、わかりやすいなー、と。私はそのめんどくささから逃れたくてほとんどの場合「苗字+さん」か「苗字+肩書き」か「同姓複数で識別のため名前+さん」。興味のある人の場合は周囲が「先生」を使っていてもかなりがんばって「苗字+さん」で呼びかけてみたり/興味のない場合は逆で、ひたすら波風立てぬよう周囲に同調...。これは公でもプライベートでも、あんまり変わらないです。

まあそれにしても恋愛は、個人にとってはこの国のゆくえよりも大問題だったりもしますよね。私だって「安倍総理のブレーンになんでいまだに岡崎久彦さんのような人が付いているのか?」よりも「18歳のときに手紙を出した○○(←名前呼び捨て/爆w)はなぜ返事をくれなかったのか?」のほうが大問題!? はい。

引用部分にはありませんが、澤村有也くんが清にぃに「彼女いますか?」と訊いた、その答えもなかなか深いものがあります。「付き合ってはいるけど、時折僕の片恋なんじゃないかと思うことがある」(該当箇所はP3のwords@worksに掲載)...これもまた大問題でもありまして、いったい「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」というのは...じゃなかった、澤村くんは「先輩は確実に尻に敷かれるタイプ」なんて簡単に結論づけていますが、いやいや、そんなことは自分がその立場になってから(と老爺心ながら...)。

 この春、俺と瞳子は揃って県立白陽高等学校に進学した。ちょうど入学式の時季に桜が咲いてくれて、その日のうちに俺は片恋の相手、小鳥遊芽衣子と仲良くなった。
「分かりやす」
「うるさい。俺より世を知ったようなこと言いやがって」
「まァ相手もまんざらでもないかもよー?」
 けたけた笑う瞳子に俺は蹴りを入れた。無論本気ではなく、戯れているだけである。
 瞳子が彼女のことを「メーコ」と呼ぶので、俺も便乗してそう呼んでみた。小動物みたいに目のくりくりしたメーコは動作がいちいち可愛かった。
「紫条先輩、メーコと同じ中学の出身ですよね」
 ひょうひょうとした三年生の紫条清和と話したのは、委員会でのことだった。
「それ、いい加減やめてくれないかな。僕のことは清にぃで良いから」
 優男と言うべきか、へらへらしているところがある人だ。俺は何回目かの委員会のミーティングの後に話しかけたのだった。
「慣れるまで待ってください」
「分かったよ。メーコちゃんとは確かに同じ中学出身だよ。キミは確か瞳子ちゃんのお兄さんだったよね? 彼女たちとは部活が一緒だからさ」
「はい、瞳子の兄です」
「で、なんて呼べばいい?」
「苗字でも名前でも構いませんよ」
「んじゃあ澤村くん。メーコちゃんに恋でもしてるの?」
 俺は顔が赤くなるのを感じた。
「分かりやすいなあ。確かにメーコちゃんは可愛いけどね。もう有也って呼び捨てにされてる?」
「苗字で呼ばれてます」
 気恥ずかしい。
「彼女、今、フリーなんですか」
「気になるよねえそこ。僕の知る限りフリーだよ」
 だから俺はメーコに告白しようと思った。妹に急かされ、先輩に楽しまれ。
 恋って不思議だ。


ウィッチンケア第5号「奇会的純情観測」(P214〜P217)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介30 友田聡さん

申し訳ないですが、私は走ることが嫌いで、できれば余生で一度たりとも「走らなければいけない状況」に遭遇したくないです。数年前、ワイドショーでジョギングブームにコメントを求められた青木理さんが「急いでもいないのに、なぜ走らなければいけないの?」と根源的な問い返しをして、いまんとこ青木さんに100パーセント賛成! ただし、私は過去、前言をころっとひっくり返しても平然と生き存えている人間──ex.1996年の夏、「オレのメイン器機は東芝Rupo」と公言していた男は中野純さんに白旗あげて秋葉原に連れていってもらいPerforma 6260購入──なので(天の邪鬼どころか恥知らずですな)、いつ翻意するかわかりませんが、しかし友田聡さんがまさか「走る人」になるとは、想像すらしませんでしたYO。

...私もいつか走り出すのか? 泳ぐのなら1キロでも2キロでも平気なので、あの「ひとりぼっちで身体を動かしている」感覚はなんとなく想像できるのだけれども、でもいまは、とりあえず拙宅の横の遊歩道を通り過ぎていくランナーの姿に仲間入りする自分が想像できない。犬散歩させる自分ゴルフする自分カラオケマイク握る自分ユニクロ着てる自分(友達いなくなりそうなのでこのへんで自粛w)。

「走れ、天の邪鬼」は走ることに目覚めた人間の楽しさを伝えてくれる作品ですが、私はむしろ、何気にさらっと書いてある<きっかけは睡眠外来で告げられた脅しのような警告>という箇所が気になりました。睡眠外来?? お会いするといつも変わらずの笑顔ですが、なにか心身のリセットを必要とするようなことと向き合っていたのかも。ランニングと出会って本来の生活リズムを取り戻したのかも、などと想像してしまいます(余計なお世話)。

スクエアやカシオペアが流行っている時代でもRossington Collins Bandの話をしていた友田さんですから、きっと「天の邪鬼」の本質は変わっていないのだと思います。東京マラソンが始まったのは2007年...その後、ランナーに転身してからの暮らしぶりだと思って「暮らしのリズム」「ときどき旧暦な暮らし」「手前味噌にてございます」「東京リトルマンハッタン」といった小誌寄稿作を読むと、なかなか感慨深い。。。

 流行ものに対しては取り敢えず斜め姿勢をとる〝天の邪鬼”は、例外なくこの騒動に冷ややかな視線を送っていた。「東京マラソン」の時は、コースが横切る月島の町から逃げ出していたほどだ。「寒くて、乾燥し、乾っ風が吹く二月の東京で、何でマラソン?」、「晴れればまだしも、冷たい雨や雪に見舞われたらとんでもない。無理無理!」、「高倍率を勝ち抜く〝運”はもっと別のことで使わなくちゃ」といったような悪たれ口を、確かに言っていた。ああ言いましたとも。五年くらい前までは。ランニングとは無縁で、激メタボだった頃。
 バチが当たってか、「東京マラソン」は三連続ハズレ中。確率からすれば、運が悪いというほどのことでもないが、前言撤回と併せて、しっかり禊をしなければ、いつまでたっても走れないかもしれない。そんなわけで、齢五十を過ぎた頃からすっかりランナー気分に浸っている。
〝人は変われる”と確信している。では何が変えたのか。きっかけは睡眠外来で告げられた脅しのような警告だった。「全然眠れていませんね。血管はカチカチです。安眠を得て健康を取り戻すにはとにかく定期的な運動を」。で、始めたのがウォーキング。姿勢を正して、リズム良く、少し早めに三〜四キロ。一年間ほぼ毎日続けた。が、体重などの数値に変化はほとんどない。それでも飽きることなく歩き続けられた。きっと気持ちが良かったからだろう。習慣になってくると休むのが悪いことのようにも思えた。ちょうどその頃、春夏秋と三シーズン、上海で単身暮らしをすることになった。夜のお付き合いは無く、アパートの横には適度な広さの公園があり、日の出とともに目を覚ましては、ひたすら歩き続けた。初夏のある日のこと、日本のテレビを観ていたら、「スロージョギングのすすめ」という特集に目がとまり、思わず〝ガッテン”してしまった。これがランナー人生への第一歩だったのかもしれない。


ウィッチンケア第5号「走れ、天の邪鬼」(P210〜P213)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介29 吉永嘉明さん

吉永嘉明さんの今号への寄稿作は、これまでの3作品と少し違うな、と感じました。以前は自身の過去を踏まえ、若いころの物語を書いていた?...でも今作は、ここで語られていることがウソかマコトかは存じ上げませぬが、とにかくリアルタイムの「ヨッシー」なる人物が登場しています。

ジオイド」「ブルー・ヘヴン」では、主人公(語り手)が破天荒な生活をしていました。「タンポポの群生」でも、奥さんにからみっぱなしの、素行に問題がある男の話...しかし今作の、「ヨーちゃん」に対する語り手の接しかたの、なんとジェントルマンなこと。私は「今どきのJKちゃん」なんて町で見かけたことしかないのでよくわかりませんが、作品を読むと、この2人って友達関係!? そして文体もある種の“軽み”が漂っているようで、私はマーヴィン・ゲイの「Midnight Love」というアルバムを初めて聞いたときのような印象を受けました。ポコポコいってるだけなのにディープな「Sexual Healing」が大ヒットした。

「ポケットの中には」のお原稿(ノートに書いたもののコピー)は、〆切をだいぶ過ぎてクロネコ@ファックスで受け取りました。最初の2作はWord。添付書類がメールで届いたのですが、前作から手書きになり、今回はそれも果たして届くのか、とヒヤヒヤだったのですが...あっ、吉永さん、そのいきさつまで作品内に反映させてる(参りました!)。

現在はPCの設定がうまくいかずネットなしの環境で生活している吉永さんですが(携帯電話とショートメールのみ、とか)、私はわりと、吉永さんとネットって相性がいいと思うんですけど、ね。JKちゃんと心が通じ合うヨッシーさんのように、いつの日にか吉永さんが、オンラインデビューすることをじつは密かに願っているので、ここを読んだ知り合いのみなさまも、ぜひぜひオススメしてみてください!

 私は10年前に妻に死なれてから9年間、鬱病をやって何もしなかった。1年前に自力で鬱から脱却し、小説を書き始めたが、いいものが書けない。数人の信頼する編集者や親友を除いて、すべての友人や仕事関係者、家族は鬱の期間に離れていった。
 ついに最近は、親友にも会わなくなり(合わせる顔がないのである)、時々心配してメールをくれる(鬱になってからつき合った)元彼女にもリターンをしない始末。誰も必要としない、誰にも必要とされない状態で、いい作品を書こうとしていた。
 そんな日々で会う人間といったら、生活のためのバイト仕事で出入りしている雑誌編集部で顔を合わせる女子高生(こう書くと編集者にJKと直される)。ファッション誌のモデルたちだけなのだった(私は50歳である)。
 何故か、この仕事はスイスイできた。小説と違って求められる水準がはっきりしているからかもしれない。
 もちろん、最初は今どきのJKちゃんの内面を知ろうと努力した。何しろ最初に彼女たちに言われた台詞が「吉永さん、気持ちいいことしてあげようか?」だった。こういう時は絶対、もじもじしてはいけない。「あー、そう、嬉しいねぇ」と即座に答え、肩など揉んでもらえばいいのである(私は一体、何やってんだ?)。やがて彼女たちとしごく打ち解けて、仕事が終わるとお茶や食事をしながら話し込むようになった。そうしてみると、彼女たちが近い世代以外のカルチャーにとても無知なことに驚いた。
 ヴィヴィアン・ウエストウッドを着ているくせにセックス・ピストルズさえ知らない。そこでお互いのカルチャー交換が始まった。私がドゥルッティ・コラムのCDを渡すと彼女たちが西野カナ(カナちゃんと言わないと怒る)をくれるという塩梅。ここで彼女たちの〝興味あるもの〟を探す情熱の凄さに驚いた。
「ヨッシー(いつのまにかこう呼ばれるようになった)、ロボコップ観た?」
「ああ、リメイクね。観てない」
「観なくていいよ」
「そうなんだ。でも、昔のやつはおもしろいぜ。すっげえ暗いけど(私も少々若い言葉で話す)」
「えー? どんなとこが?」
「ニイニイニイニイニイ、バーン」
「何それ?」


ウィッチンケア第5号「ポケットの中には」(P204〜P208)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/23

vol.5寄稿者&作品紹介28 三浦恵美子さん

パルコ発行の雑誌「アクロス」の編集者だった三浦恵美子さんとは、かつてとある草の根BBSで知り合いました。モデムの速度が9600〜28800bpsのころ、それでも充分にリアルタイムでオンラインな感じがしまして、「既読なのにレスがない!」みたいな悶々はすでに味わっていましたから...System 7、っうか「漢字Talk 7.5.5」なんて言葉が生きてた時代。

三浦さんの寄稿作「〈TVガーデン的シネマカフェ〉」ではむかしのテレビのことを「まるで〝生き物〟みたいなブラウン管受像機」と描写する箇所があり、そうだったよなぁと思いました。私は文系人間なのでなぜテレビにあのような奥行きが必要だったかのかいまも詳しくわかっていませんが、しかしあの四角っぽい存在感が、なんかカラクリ箱みたいでまがまがしく、映し出されたものを見ているのに「中に誰かいて、なんかやってそう」な気配を漂わせてた。触ると熱いのも、妖しかった(コンセントを抜くと死んじゃいそうでw)。

しかし、三浦さんが仕込んでみようと思う〈TVガーデン的シネマカフェ〉...作品前半には、<たとえば「午前十時の映画祭」的なラインナップで>なんて穏やかにさらっと書いてありますが、それで安心してはいけません。読み進んでいくと<この空間で展開する名作映画上映プログラムの実例を挙げてみることにします。たとえば「果てしなき夢落ち、あるいは夢へと落下する映画という夢」と題して>...おいおい、どんな「午前十時」ですか! お医者さんの待合室とはえらい違い...。

名前の挙がった5作は、単独で観てもかなり濃そうなものばかり。これらをまとめて、しかも<6 : 1 : 1 : 1 : 1 の割合でメインプログラムに6割の空間を配分><ひとつの作品を、たとえばすこしずつ時間をずらして上映してみたら?>だなんて。この上映会に参加した鑑賞者がどうなってしまうのか、三浦さんにはどんな「確信」が「芽生えて」いるのか、ぜひ本作の全文を読んで知ってください...おかあさんはもう、許しませんから(by 仲畑貴志)w。

 最後に、〝確信犯〟による「夢落ち」作品を2点。
ひとつは、「夢」を映画に織り込むことにかけてはシュルレアリズムの時代から〝手だれ〟であるルイス・ブニュエルが、ここまでとことんやってみました、と差し出してみせた感もある『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。もうひとつが、ここに作品を挙げた監督のなかでは最若手のクリストファー・ノーランによる『インセプション』です。このふたつの作品においては、すでに「夢」が、ゲームのルールのひとつであるかのように、「現実」と並んである種の〝実体〟さえも獲得しています。ここでは、誰かの夢を別の誰かが共有するということが、当然であるかのように可能です。誰かの夢の中の誰かの夢の中の誰かの夢の中の誰かの夢、という気の遠くなるような夢の連鎖までが想定されている。ブニュエル作品ではどこまでも現実が脱臼し続けるような奇妙な感覚が、クリストファー・ノーラン作品では夢の世界がアクション映画の文法の中にきっちり収まるという異様なシステマティックさが独特ですが、どちらも連鎖する夢の奥底へと落ちていく果てには、「虚無」が大きく口を開けて待っている。あるいは、ここまで徹底して「夢落ち」を弄ぶと、これは「夢」という名の「映画」そのものについての映画なのではないかというふうに見えてくるのが不思議です。

 さて、くだんの〈TVガーデン的シネマカフェ〉にてこの〝夢落ち〟作品特集を組む場合、どうモニター群を構成し、どういうタイミングで5作品を同時上映するのか。
 考えるだけでワクワクしてきます。


ウィッチンケア第5号「〈TVガーデン的シネマカフェ〉試案」(P0198〜P203)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介27 山田慎さん

小誌第4号に「レイ・ハラカミの音楽とペリカンのロールパン」を寄稿してくれた山田慎さん。いまは京都在住ですが、今年2月に渋谷のカフェ(というかおいしいパンを供すお店)でいろいろ伺ったところ、東京ではレコミュニ(音楽配信サイト「OTOTOY」の前身)のスタッフで、その当時のネットワークも現在の活動に繋がっているようです。あっ、山田さんは小誌のヒストリーをご自身のブログにまとめてくれまして、これは発行人がときどき参照するほど秀逸ですので、ぜひご一読ください!

山田さんは今号掲載作「日本 音楽 京都」で、現在進行形での京都音楽シーンを幅広く伝えてくれました。たとえば『ボロフェスタ』関連で山田さんが推しているのは、odd eyesホームカミングスHi, how are you? の3組。Hi, how are you? の紹介では<カート・コバーンがTシャツを着たことで、あまりにも有名になったダニエル・ジョンストンの作品名をそっくりそのまま採用してしまった彼ら>とありますが...ちょっとそこのおとうさん、ついてこれてますか? 私も「音楽雑誌の知らないバンド名にわくわくしていたころ」を思い出して、がんばりますとも(苦笑)!!

作品内には他にも「感染ライヴ」、イベントスペースである「メトロ」「世界ワールド」「ナノ」「アバンギルド」、また音楽関連のCD等も取り扱いする書店として「恵文社一乗寺店」「ガケ書房」(この2店は小誌を創刊号からお取り扱いいただいております/大感謝!)が登場しています。ほんとうに情報満載ですので、ぜひ小誌でお確かめください〜。そしていまは<最前線の情報>として記されている数々の固有名詞が、今後普通名詞化していったり、歴史の貴重な記録となったり...。

私自身の京都音楽というと、古くは日比谷野音でライヴに戦慄した裸のラリーズ、そしてここ数年はレイ ハラカミとモーモールルギャバンでしたが、しかし野口が爆死した久津川って、川の名前だと思っていた(どうも駅名らしい)...。今度京都にいったら、本作品と山田さんのつくった「現代関西音楽帖」を手にいろいろまわってみようと思います!

 京都の良さは自転車があれば行きたいところに行くことのできる距離感だと思っている。この距離感というのは東京では感じなかったことで、言ってしまえば「コンパクトな街」なのであるが、人を繋げるには優れた点だと考える。例えば初めて会った人でも知り合いの知り合いだったということは京都ではたまにある。「あの店知ってますか?」「知ってますよ」なんて会話も結構あって、共通の話題が出やすい。
 そして同業のお店、例えばレコードショップなどはライバルではなく、交流関係があることも特徴の一つ。前述した京都レコード祭りに参加すると、そのことを体感できるはず。ライヴハウスも同様で、西院ミュージックフェスなどのサーキットイベントも催されている。小さな街故にいがみ合うことはデメリットであるだろうし、それよりかは共存、もしくは面白いことをやろうという気概のようなものを感じる。学生が多いために、彼らの活気を受けて、元気な年輩の方が多いのかもしれない。
 筆者が京都に越したとき、京都音楽を他県に伝える人が全く居ない状態だった。学生が終わると就職などでバンドが解散することも多いのが京都音楽シーンの特徴。できれば少しでも長く活動してほしい。そして活動している今こそ、多くの人に彼らの音楽を知ってもらえたら。そう思ってスタートしたのが、京都イベント情報を中心に掲載するニュースサイトsweet music。2011年からは音楽評論家の岡村誌野が講師を担当する「音楽ライター講座in 京都」の企画も担当。音楽ライター講座ではbccks にて今の関西音楽作品100枚をレビューした電子書籍『現代関西音楽帖』を無料にてリリースしているので、指南書として役立ててほしい。


ウィッチンケア第5号「音楽 日本 京都」(P0190〜P196)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/22

vol.5寄稿者&作品紹介26 やまきひろみさん

やまきひろみさんの寄稿作「合鍵」は、小誌第2号に掲載した「ふたがあくまで」の続編、といっても、場所と時間の流れが継続しているだけで、物語はするりと別の語り手へとバトンタッチされていきます。

第3号掲載「小さな亡骸」では故郷・福島への思い、そして前号掲載「8番目の男 朝の部」では大好きなローリング・ストーンズへの思いが込められた作品でしたが、今作で描かれているのは...ちょっと不思議な夜の情景。タイトルに使われた合鍵、そして肉豆腐が、とってもいい味出しています(しゃれじゃなくてw)。

「合鍵」を読んで、日常と非日常についてあらためて考えました。拙作の紹介文にも少し繋がることなのですが、変化(経年変化、みたいなものも含めて)によって「あたりまえ」の根拠が揺らぐことは少なくなくて...むかしはおっかない系の論客がよく「日本人は平和ボケしていて水と安全はタダだと思っている」みたいなことを言うたびに、アンタにはだまされないぞ、と心の中で思ったものですが、まあ、それはともかく、世の中には「恋人が部屋にいる」が日常な人も非日常な人もいて、だから「いない」もまたそうであって、しかし本作に登場する「園田さん」は...このような人との関係性が日常だと、まあ、くたびれるだろうなぁ、と。

<わからないね。わからないことばかりだな>という「私」の独白が胸を打ちます。作品内では「園田さん」とのいきさつ以外、ほとんど説明されていないのですが、いったいこの人は何者(そもそも人なのか?)、と想像してみると、いよいよ謎は広がるばかり。しかし謎が謎のままでも、主人公に最後に訪れた深い眠りの安らかさは、きっと伝わってくると思うのです。

 そのひと、園田さんは私の部屋の合鍵を持っている。しかし私は園田さんの部屋の鍵を持っていない。
 もう鍵を返してもらおう、返してもらわなければ。そのことを考えるようになってから私はうまく眠れなくなり、長すぎる夜を紛らわしたくて歩くことにしたのだった。歩き始めたのは1カ月と数日前のことで、園田さんとは音信不通の状態がすでに2カ月近く続いている。
 
 アパートに着くと、玄関の鍵があいていた。園田さんの靴がある。
 深夜に突然、なんの連絡もなしに園田さんがやってくることはこれまでにもあった。しかし2カ月近く前にあんな気まずい別れ方をして、これだけ音沙汰なしの状態が続いていたのに、まるで何事もなかったかのようにいままでと同じふるまいができる神経とは、いったい。
 居間に園田さんの姿はない。隣の寝室をのぞくと、なんと勝手に布団を敷いて寝ている。いびきをかいている。え。え。え。
 そりゃないよ、園田さん。
 どっと疲れが出る。くたっと肩の力が抜ける。するとなぜか唐突に笑いがこみあげてきた。長い間こわばっていたものがみるみるうちにゆるみ、ほぐれていくのが体でわかる。
 ちょっと。なにうれしくなっちゃってんの。
 体を横たえ目を閉じる。公園にあったあの箱がまぶたの裏に映る。狭くて真っ暗な箱の中にいる自分をもう一度想像する。
 その闇の中に、園田さんの顔は浮かんでこない。
 目をあける。すぐ隣に園田さんがいる。いらだちながらもほころび、くつろいでいる自分が、園田さんの隣にいる。
 この事実を超えるものは、いま、ここにはない。
 入ったことのない箱の中の本当の暗さは、どんなに想像しても結局のところわからない。
 
 園田さんに渡してある合鍵はどの道いずれ返してもらうことになるだろう。どちらから切り出すのか。それが数時間後のことなのか、それとも数年後になるのか。そのとき自分はどんな気持ちになるのか。わからない。
 ただ、園田さんが私の部屋の扉を二度とあけなくなる日がくる。そのことを想像している自分の胸は、この刹那、確かに、痛い。
 そもそもどうして園田さんは今夜突然うちに来たのか。こんなにぐっすり眠っているということは相当疲れているのだろうけれど。
 わからないね。わからないことばかりだな。
 真夜中の公園に吹いていた、冬の風の冷たさが不意によみがえる。あのひとはうれしくて泣きそうだと言ったけれど、私の前では泣かなかった。夜空を見上げて、晴れ晴れとした顔で笑っていた。


ウィッチンケア第5号「合鍵」(P0183〜P189)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介25 吉田亮人さん

写真家として「週刊新潮」「ソトコト」等で作品を発表している吉田亮人さん。京都・妙心寺退蔵院に「退蔵院襖絵プロジェクト」参加(撮影)、教育インタビューサイト「eduview」共同運営と、その活動は「シャッターを切る」に留まらない広がりを持ち始めています。

小誌への寄稿作「始まりの旅」には、小学校の先生だった吉田さんが写真家になった瞬間のできごとが記されています。作品内には<2010年4月。僕はひょんなきっかけから6年間勤めた小学校教員の職を辞め>とありまして(小誌創刊と同じ時期!)...なにが「ひょん」だったのかは知る由もありませんが、しかし人間の「スイッチが入る瞬間」なんて、衝動が勝っていてうまく言葉にできないことも多いだろうな、と推察。「あれはなんだったのか?」は、その後「結果を残す」ことで周囲に“説明”することができれば、ハッピーなのだと思います。

羊飼いのおじいさんと遭遇した場面の描写が、強烈な印象を残す作品です。映画のワンシーンのよう。でもこの状況って、ごく常識的に思い浮かべるとかなりヘン...いや、おバカ(「お利口さん」という言葉との対比において)。桜の季節までは日本で先生であった青年がインドの片田舎で汗だくでチャリンコ走らせててしかもややへこんで休んでたら意味不明の言葉を投げかけられた、って。学校を辞めなければ空調の効いた部屋でテストの採点などしていたかもしれませんしそれはそれでリア充...でもそれではいまの吉田亮人さんは誕生しなかったのだな、と。

桜井鈴茂さんの作品に登場する「ここではないどこか」という一節と、吉田さんの書いた「僕自身の中に眠る何か」という一節が私のなかで共振しました。旅はリセットの特効薬...でっ、旅が必要な理由は自分自身の問題!? 私もかつてそのような旅に出た記憶がありますが、しかしのそのなかの「ある部分」は、恥ずかしながら「なかったこと」(黒歴史)にしていたり...まあ教訓を学ぶ材料にはなっていますが。。。

 旅も中盤を差し掛かった頃、僕はインド西部のラジャスタン州の片田舎を走っていた。
 人っ子一人いない荒涼とした大地に、定規で引いた様な一本道が地平線の彼方まで続いている。走っても走っても変わらない景色にうんざりしながら、それでも何とか前に進むのだが、相変わらず僕の気持ちは後ろ向きのままだった。
 僕は路肩に自転車を止め、とめどなく吹き出る汗を拭いながら残り少なくなった水筒の水を一気に飲み干し、辺りを見回した。
 遥か向こうから羊飼いのおじいさんがゆっくりと近づいて来るのが見えた。「パジャマ」と呼ばれる白い民族衣装とターバンを巻き、「ハッ! ハッ!」と威勢の良い声を上げながら何十頭という羊を一人で前進させている。羊の歩く速度は実にゆっくりで、時折草を食みながらのんびりとこちらに近づいて来た。
 その様子を見つめていると、おじいさんも僕の姿に気付いたようだ。
 目が合った瞬間「ピーッ! ピーッ!」と指笛を鳴らし、羊の歩みが止まった。
 僕をじっと見据えたまま、微動だにしないおじいさん。
 青い目と白い髭と、彼自身の歴史を物語っているような深く刻み込まれた皺が印象的だった。
 すると彼が突然、
「○▲※■△●□!!」
 と、僕に向かって何か大声でまくしたて、にわかに歌いながら踊り始めた。
 あまりに突然のことで、僕はあっけにとられていた。
 しかし次第にその光景に強く惹き付けられるのだった。
 目を閉じて声を振り絞るように出して歌いながら、天を仰ぐように手を大きく振りかざしたり、ステップとも言えないステップを踏んだり、ジャンプするおじいさん。
 それはまるで生きる喜びや素晴らしさが体全体から発せられているようだった。
 彼の大きくて伸びやかな歌声が大地と大空に溶けていく。羊は黙々と草を食んでいる。
 僕はシャッターを切った。


ウィッチンケア第5号「始まりの旅」(P0176〜P181)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介24 多田洋一

今号でもまた自分で自分の書いたものを紹介する順番がまわってきました。おーい誰か私の代わりに書いてくれませんか? っていう気持ちがかなりありまして、だってこのような形式の文章ではうまく書けないことを書くためにあのように書いたのですから...とにかく読んでください〜。

掲載作の「萌とピリオド」は、<変化>について書いてみようと思って書きました。前号に掲載した「危険な水面」と自分のなかで緩やかに繋がってはいますが...とにかく<変化>。「変わること」と「変わらないこと」の関係性というか、「自分が認識している変化」と「外側から眺めた自分の変化」の齟齬というか。でもって、なんでそんなに<変化>に文字を費やすほどに興味があるかというと、ここ数年の自分のなかで起きている<揺らぎ>について、書き留めておきたいと思ったからではないかと。

少し具体的に書いてみますと、たとえば今日の私は「iPhoneを持っているのがあたりまえ」で外出しましたが、しかしその「あたりまえ」は短くもない人生のたかだか4年くらいのそれでして(小誌ブログにもこんなこと書いてるし...)、でっ、たかだかiPhoneひとつでも、人とのコミュニケーションのさいの<たかだか「ものさし」のようなもの>ですら、ものすごく変化していまして、私が「これが私である」と認識しているところの私は、そういう(iPhoneに限らないさまざまな)変化に“正しく”対応できているのだろうか、みたいな。...ほら、うまく説明できないから、やっぱり「萌とピリオド」を読んでください〜。

チャイムは誰が」「まぶちさん」「きれいごとで語るのは」の主人公は、まあ「思っていることと言ってることとやってることがバラバラ」ではありますが、それでも「オレはオレで、世の中はまあこんなもんだろ」みたいな認識で活動しています。でも最近のふたつは、その認識自体が揺らいで足下がすくわれている感じでして、そこを書くのがおもしろいです(「まぶちさん」はnoteにもアップ)。そして「萌」という字に「きざし」とルビ振ろうかなとも思ったのですが、でも「モエピリ」と読まれちゃってもまあいいかなと思い直して、いま使ってみたい漢字をそのまま放置しました...萌(タイトルは起点と終点、みたいな意味合いで捉えていただければ)。

 上原さんと出くわした通りまで戻ると、僕は妙にさばさばした気分になっていた。オイルと蝋燭を買いにいかせたのは宏美。確証はないが、僕の中ではもう繋げてしまった。人の心を試すようなことをされるのに耐えきれず僕は宏美から逃げ出したんだけれど、たぶんそんな僕と入れ違いで、なにかのきっかけで上原さんを出入りさせるようになったんだと思う。まあ、いい。まあ、上原さんの買って帰ったのが特殊な折檻のためのオイルと蝋燭だったりしないことを、密かに祈ってはいる。でも、そんな趣味があったのかどうか少なくとも僕は知らないし知りたくもないし……しかし、世の中を牛耳ったみたいに楽しそうに見える人って、たとえば上原さんのような「光線を出している人」なんだな、とつくづく。その光線は数式や言葉の整合性と合い口が悪いらしく、それらで解析すればするほど「理不尽な部分」へと分裂し実相から遠ざかる。
 ドーナッツ店のまえで、僕はまず夜に入れていたアポ二件を電話でキャンセルした。時間を都合して日暮れまえに宏美を突然訪ねてみるつもりだったが、そんな気持ちは微塵も失せた。
 画面をスクロールしてこれから会えそうな数人に連絡してみた。最初に色よい返事をくれたのは荏原だった。僕はネクタイを少し緩め、人目を気にせず背伸びしてから胸のフラップポケットに電話をしまう。
 地下鉄に乗る頃には、もう明日以降出社しない決心がついていた。それより、数年ぶりに会う荏原に皺や肝斑が増えていませんように。腕や腰が弛んだり……あと、歯がくすんだり欠けたりしてないことも願いながら二子玉川で大井町線を待った。自由が丘より先にいくのは初めてで、荏原がいま住んでいるという駅名になんのイメージも持てなかった。あっ、でも品川区なんだ。品川といえば教習所とプレートと新幹線だ。
 改札で迎えてくれた荏原が、僕の手を強く握って部屋まで連れていく。途中で花豆とドライフルーツを買うと言い出し、アーケード街の青果店に寄った。荏原はあいかわらずなんだかよくわからない雑貨と人形と本とともに暮らしていて、外見はほとんど変化を感じさせなかった。むしろ頭髪の薄さと白さを会ってすぐに笑われ、僕のほうが傷ついていた。
 甘い香りが強いお茶を淹れてもらいしばらく会話していたが、二人きりでのお楽しみはひとつしかなかった。


ウィッチンケア第5号「萌とピリオド」(P0168〜P175)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/21

vol.5寄稿者&作品紹介23 藤森陽子さん

「Hanako」や「BRUTUS」のライターとして活躍中の藤森陽子さんは今回、兄の人生を通して「ロックとはなにか?」について考察した作品を寄稿してくれました。そうだ、辻本力さんも同傾向の作品でして、双方を読み比べてみるのも、今号の楽しみかたのひとつかも、と(「旅」についての桜井鈴茂さんと吉田亮人さんの作品、「田母神氏」が登場する我妻俊樹さんと久保憲司さんの作品なども...)。

<あきらめの悪さもロックなんじゃないか、兄を見ているとそう思う。>という藤森さんの実感から書かれた一節には、重い響きがあります。若いころ<ずっと僕が必要で優しくしてくれるかな/64になっても>って歌ってた人、全然老後っぽくないし(でもいまは体調が心配/5/18の国立競技場のチケット持ってた)、ミック・ジャガーも大昔のインタビューで「自分が40過ぎてもストーンズやってるとは思わなかった」みたいな発言していた記憶があるし。...この「裏切られた感を丸呑みする」がロックの正体だったのかw。

藤森さんの今号掲載作「欲望という名のあれやこれや」について、「小林多喜二と埴谷雄高」の著者・荒木優太氏が「藤森陽子とは現代の葉山嘉樹」と書いています。私はこのユーモアのある評論が楽しかったのですが、しかし同じ作品内で<100万のシャネルスーツはムリ/でも35万なら...>(大意)というようなことも書いていながらプロレタリアっぽい気配を荒木氏に嗅ぎ取らせた藤森さんの筆技に...いやあ、これはびっくり。

茶道楽の日々」「接客芸が見たいんです。」「4つあったら。」「観察者は何を思う」と、毎回なにか新しい一面を覗かせる藤森さんの文章を、そろそろまとまったかたちで読みたくなってきています。そしてなによりも、御兄様のますますのご活躍を祈念致します! そういえばジミー・ペイジも、若いころは悪魔に魂を売り渡そうとしていたのに、どこかで身を翻したんじゃなかったっけ?

 親が芸能人やミュージシャンという家庭もさほど珍しくはないだろう都会と違い、「地方の小さな町の」「先生んちの息子」がバンドをやっているのは、それだけでなかなかな問題なのだった。ミュージシャンで食って行くという人生など、我が父の選択肢には無い。
 高校から大学、そして社会人になってもいっこうにバンド活動を辞めようとしない息子に対し、不毛ともいえる父の説教は続く。それが私の思春期以降の、我が家の風景だ。
 そもそも彼に圧倒的な個性や観客を魅了する華があったら、オリジナルでデビューしていたかもしれないし、そんなことは本人が一番分っていることだろう。それでも辞めずに30歳にしてトリビュートバンドという道を選んだ。演奏スタイルを研究し細密に再現するのは、学究肌の兄には案外向いていたのかもしれない。
 妹からすれば、そんなに好きならスタジオミュージシャンでも何でもいいからさっさとプロになればいいのにと思ったものだが、「先生んちの子」らしく変なところで生真面目な彼は親不孝者になりきれず、かといって反省して足を洗う訳でもなく、「働きながらバンドもやる」という最も往生際の悪い方法を選んだのだった。
 それは才能があるとかないとか、もはやそんな甘っちょろい話ではないんだな。どうしようもなく好き好きで仕方がない、もっと泥臭い、どうやっても消し去ることのできない熱情とでも言おうか。なんと愚直で不器用で、青くさい生き方だろう。
 かなわないな、と思う。
 
 不肖の兄はいつの間にか、平日はサラリーマンとして働き、週末は全国のライブハウスを行脚する家族イチの働き者になっている。父もさすがに認めたようで、最近では父からの電話でバンドの活動ぶりを(ちょっと自慢げに)聞くことも多くなった。
 ああ、こんな日が訪れるとは。これもすべて、ただただ続けてきたからに他ならない。
 
 兄にとってのロックな生き様は、27歳でオーバードーズで早死にすることでも、30歳で芽が出なければ〝けじめ〟をつけて辞めることでも、もちろん40歳で偏執狂的なファンに撃たれ、非業の死を遂げることでもない。
 長生きして続けることなのだ。
 あきらめの悪さもロックなんじゃないか、兄を見ているとそう思う。


ウィッチンケア第5号「欲望という名のあれやこれや」(P0162〜P166)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/20

vol.5寄稿者&作品紹介22 江口研一さん

昨年からすっかり町田ジモティ化している私ですが、20代半ばにはニューヨークの学校に通っていたことがあり、江口研一さんの掲載作「~Money making Mount Vernon~ 僕の脳内ニューヨーク」に登場するイタリア系のピザ屋さんの逸話などは、ちょっと、かなりぐっときてしまいました。

<ぶ厚いパン・ピザが最高のごちそうだった。あれ以上テンションの上がる食べ物はない。「3インチだぜ」とTシャツが脇汗でべったりのイタリア人店員は自慢気に見せてくれた。>...口のまわりや手を汚して食べた路上ピザは、たしかにテンション上がるおいしさだった(遠い目)。ですが、たとえば作品内の<水色のプールの底に銅色の1セント硬貨>のようなエピソードは、これが10円玉でもまったく同じような時間感覚を共有できるもの。海外の話を身の丈でさらりと語る、江口さんらしい作品です。

前号に「僕はトゥーム・ツーリスト」を寄稿してくれた江口さん。今回はフィリップ・シーモア・ホフマンの訃報(今年2月)で映画「脳内ニューヨーク」を思い出し、自身が住んでいたころのマウントヴァーノンの光景を、記憶を頼りながら書(描)いています。作中に記されているように<今はグーグルマップがある>ので、思い出の場所がどうなっていたか、検証しようと思えばできる時代なんですが...なんか、野暮っすよね。Facebookであの子の近影見てが〜〜ん、みたいな。

私の脳内にも<自分が出会い、必要とした場所だけが詰まった地図>が何枚かあります。その1枚は小中学生時代の町田のものなんですが、この歳になって同じ地図上を移動して一番感じるのは、風景の変化よりも...なんと「えっ、オレ毎日こんな距離を!?」という、体力の衰え。毎日徒歩通学だった中学校、遠い遠い。家のまえの坂道、チャリンコでは息が切れて登れない。そして、体力に比例して脳内の「雑多な事柄」もぼんやりしてくれたらいいのに、こちらは「必要と判断しているもの」だけが逆に先鋭化していくようで...なんだかたいへんですわい。

 原題は『Synecdoche, New York』。シネクドキと読むその意味は堤喩。上位概念を下位概念で、また下位概念を上位概念で言い換えることを言うそうだが、よく分からない。つまり、ある一部が全体を表し、全体がある一部を表すようなこと、というそれだけで煙に巻かれるタイトルだ。さらに州都オルバニーに近いスケネタディという町の言葉遊びだというから尚更だ。演出家が自分の記憶を下に巨大スタジオの中に〝脳内ニューヨーク〟を増殖させ、中の人間はリアルに人生を演じ/生きていく究極のリアリティーを描く映画の一部はヨンカーズで撮影されたという。マンハッタンの北の郊外、ハドソン川沿いにあるベッドタウンだ。近い……というのは、地図上で指の一間接分東へ辿ったマウントヴァーノンという、僕が5歳の頃から住み始めた街に近いのである。その街を想いながら、自分の脳内ニューヨークについて考えてみた。どこに住んでいたか聞かれる時、どうせ知らないだろうと思いながら「ニューヨーク」とだけ答えていた。だがニューヨークを知る人は必ず「ニューヨークのどこ?」と返ってきた。マンハッタンからブロンクスを北に越えた街はニューヨーク市の5つの地区の外だ。もちろん、そのために比較的安全でもある。「Money making Mount Vernon」そう呼ばれるほど白人富裕層の印象が強い街だ。ローリン・ヒルがソロになる前のフージーズを取材した時にも笑いながらそう言っていた。いや、待てよ。ここでも記憶の捏造されている。それは同じ日に話を聞いた、90年代のヒップホップバンド、ジャスティス・システムのジャバズかもしれない。ブルックリンの同級生でバンドを結成した彼も、子供の頃はマウントヴァーノンに住んでいたと話していた。そう、彼のおばあちゃんが住んでいたからだ。だが金持ちの街という印象にも拘らず、街は南北に分けられる。マンハッタンのグランドセントラル駅へ繋がる路線の北側には静かな山の手の住宅街が広がり、そこに白人富裕層の邸宅が並ぶ。ところが駅の南側は黒人が多く、線路を隔てただけで空気はがらりと変わる。店が立ち並び、混沌とした印象。雑多な音が耳を満たし、子供ながらにわくわくしたものだ。

ウィッチンケア第5号「~Money making Mount Vernon~ 僕の脳内ニューヨーク」(P0156〜P160)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介21 木村重樹さん

世の中には知名度と必ずしも比例はしなくとも「名前そのものがインパクト」な人がいまして、ここ数日世の中を騒がせているあの有名人も、ピーガブ好きだったのかも(っうか悪い冗談/パクリ)。あっ、ピーガブとはPeter Gabrielの、日本の一部でだけ長く通用している愛称。一時期日本でも発音に近い「ピーター・ゲイブリル」と表記されるようになりましたが、やっぱりあの人は、私的には「ぴーがぶ」。14歳のときからファンです。

小誌にこれまで「私が通り過ぎていった“お店”たち」「更新期の〝オルタナ〟」「マジカル・プリンテッド・マター 、あるいは、70年代から覗く 『未来のミュージアム』」を寄稿してくださった木村重樹さんもまたピーガブファンでして、もう長く、知らない人が聞くと「なんの話?」ってな会話(固有名詞の普通名詞化!?)をしてきたような記憶がありますが、近年はピーガブの活性が落ちたせいか(そんなことはないと反論されそう)、なんだか昔話を懐かしんでいるような気分でもありますが、しかしそれはともかく、今回の木村さんの寄稿作は、寡作なピーガブがソロとして一番活動的だったころのアルバムに焦点をあてた論考です。

ピーガブのⅠ〜Ⅳって、1〜4という数字すらクレジットにはなく、私は数少ない「ピーガブ話ができる人」とのあいだでは「1枚目はさぁ〜」とか言ってました。名前のクレジットはpeter gabrielと小文字、ジャケットだけがどんどん過剰になっていき...(困ったことに小誌発行人は若いころこの人のこういう部分にものすごく感化されておりまして、その影響がWitchenkareにも...いやいや、いや)。

木村さんの作品内にもありますが、ピーガブは5枚目のアルバムに「So」という嫌々感丸出しのタイトルを付けまして(表ジャケはシール、裏に印刷がオリジナルかな...「P」と「G」は大文字!)、この言葉を私なりに訳してみると「ったくもうみんなクソなのにうるせーんでしょうがないからそれじゃそろそろ、さてさて、うひひ(寂しかった...)」みたいなところかな、と。ジャケ写も異例な「ふつうのいい男」で、同アルバムで1987年の「Grammy Award for Album of the Year」候補。私はリアルタイムで中継を見ていましたが、ピーガブがしおらしい顔でPaul SimonやSteve Winwoodと一緒に発表を待っているって、悪い冗談かと。でっ、その後いままでピーガブのピの字も口にしなかった人から「最近ピーター・ゲイブリルが良くてさぁ」とか言われて(以下略)。

 そんなジェネシス時代のオーヴァーアクトの反動なのか、77年のソロ・デビュー以降、彼が発表した4枚のアルバム・ジャケットは、全面を覆う象徴的な写真の片隅に、ただ「Peter Gabriel」とだけクレジットされ、それ以外の文字情報や説明が一切ない、なかなかコンセプチュアルな趣向がまた話題を呼んだ。

「他の連中はアルバムを出すたびに、また新しい顔を見せようとする。粉石鹸を売出すみたいにね。新成分WM7ときらめくような青い粒子を配合し、みたいなね。それよりは、前とそっくり同じタイトル、同じ字面、同じレイアウトにして、外見的には写真でしか違いが分からないようにするほうが数倍面白いと思ったんだ。年一回、ひとりのソングライターが発行する雑誌みたいなもんさ」(『ピーター・ガブリエル(正伝)』スペンサー・ブライド著、音楽之友社、1989年/172頁より)


「雑誌みたいなアルバム・カヴァー!」言い得て妙だし、この種の反骨精神はロックの原初的な精神性を担保するものでもあるのだが、流通販売の段階で商品名がまるっきり区別できないタイトルが3つも4つも存在するのは、とてもとても難儀なことだ。というか傍迷惑だ。結果として、『Ⅰ(Car)』(77年)、『Ⅱ(Scratch)』(78年)、『Ⅲ(Melt)』(80年)、『Ⅳ(Security)』(82年)とナンバリング、もしくはジャケット・デザインを連想させるような〝渾名〟がつけられることで、一連の作品=商品は区別されるようになったわけだが、個人的にはこれらの(ちょうどパンク/ニューウェーヴの隆盛期に)発表されたPGの初期ソロ群は、彼の長い長い音楽キャリアのなかでも格別に思い入れの詰まった作品ばかりだ。
 タイトルは不変だが、プロデューサーは全部違っている。『Ⅰ』は、キッスの『Destroyer』(76年)からピンク・フロイドの『ザ・ウォール』(79
年)までを手がけてきた、大仰かつドラマティックな演出で際立った手腕を見せるボブ・エズリン。『Ⅱ』は、74年にキング・クリムゾンの活動を停止してから81年の再始動まで、ニューヨークのニューウェーヴ・シーンに傾倒していた頃のロバート・フリップ。『Ⅲ』は、ゲート・リヴァーブと呼ばれる独特のドラム・サウンドの開発で一世を風靡したスティーヴ・リリーホワイト。『Ⅳ』は、シンセサイザー奏者でもあるデヴィッド・ロードとPG自身。


ウィッチンケア第5号<ピーター・ガブリエルの「雑誌みたいなアルバム」4枚:雑感>(P0150〜P154)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

vol.5寄稿者&作品紹介20 谷亜ヒロコさん

知り合いになったころの谷亜ヒロコさんはV6の作詞などを手がけている、と伺いまして、たしか下北沢でバッタリ会ったりもしたから、きっとご近所だったのかな? 当時の私は6がどういう3と3なのかも把握していませんでしたが月日は流れて...いまはNHKの朝の顔(ウドーさんの扱いが上手)や軍師官兵衛ですね。あっ、官兵衛では櫛橋左京進の役者さんがかっこいいなぁと思って見ていて、のちにお父さんを知ってびっくり!

作詞家/ライターとしての谷亜さんと、今号に掲載した「今どきのオトコノコ」はどんな具合にご自身のなかで繋がっているのだろう、と考えてみました。じつは谷亜さんが寄稿してくださることになったとき、私は最初「大人の恋愛小説?」と勝手に想像したのですよ(谷亜さんに限らず、女性寄稿作はことごとく私の予想を心地好く裏切ってくださいまする)。...いやしかし作品を読んだあとは、じつは谷亜さんは「憑依の達人」なのではないか、でっ、その意識で「夏のかけら」の歌詞を読み直すと、なるほど、と。オトコノコだけじゃなく、谷亜さんはその気になればオジサンでもオジイサンでもオネーチャンでもアカンボーでもウチュージンでも、ポゼッション!?

作品内の「俺」は多分に頭でっかちで、現状にむかついているというより脳内の「あり得べき自分」と実際の自分とのギャップでやさぐれているんだと思いました。<なんだか探しているものが見つかった>...って。それでも、検索をきっかけに多摩川まで1人で出かけていってよかったです。実体験を通してものの見え方はずいぶん変わったようですが、しかし<どんな時も多摩川は右に向かってたぷたぷと流れているだけ>。。。

私にとっての多摩川の風景は、小田急線「和泉多摩川」駅から田園都市線「二子玉川」駅あたりまでの「左に向かって」流れている感じでして、作品に登場する南武線「平間」駅、さらに「俺」がスパムムスビを食べる川崎あたりは、ずいぶん違っていそう〜個人の漠然としたイメージでは「フナやクチボソが釣れそう」と「ハゼやエビが釣れそう」みたいなことかと思っていましたが、いまはそんな牧歌的なこと言えないほど厳しそうですね〜。

 長谷場の「送っていこうか」を途中で振り払い家に帰ってきて、すぐにPCの電源を入れ「貧乏、イヤ」と検索してみる。すると秒殺で、テンション高めのいきり立っている人々がどんどん出て来る。「私は友達より貧乏じゃない」「貧乏すぎておやつはいつも小麦粉をやいたヤツ」「生活がギリギリ過ぎてホームレス寸前」……。
 「ホームレス?」なんだか探しているものが見つかったような気がした。渋谷や新宿にゴロゴロいるあれか? 次にホームレスで検索をかけてみると、うちから近いところの多摩川沿いにいっぱいいることが分かった。しかもそいつらは何だかえらい豪邸に住んでいる。高床式のような手作り住居は、南の島にあるみたいな吞気さ加減だ。
 将来、俺もホームレスになる恐れがあるような気がしてくる。このまま大学を卒業しても、ブラック企業に勤めるのが関の山だ。毎日満員電車に乗って、朝から晩まで働いて、疲れてバックレて、行くところがなくなって、路上に寝泊まりする。そんな将来が安易に想像出来る。かといって、起業したりして闘うなんてことは出来ないんだ。闘いたくない。誰とも闘いたくない。自分とも闘いたくない。そんな俺はホームレスがピッタリなのかもしれない。
 十一月に入ってすぐの晴れた土曜日だった。
 思いきってJR南武線に乗り、俺は平間駅で降りて、iPhone 片手に多摩川側を目指した。さえない商店街と住宅街を抜けていくと、すぐに土手が見え河川敷が広がっている。
 川に沿って歩き始めると、少年野球をやっているのが見えた。一生懸命なかわいい子供の声は心地よく、そのサウンドに惹かれて川に近づいていくと、オヤジ二人がゴルフをやっていた。赤い文字で「ゴルフ禁止!」と書かれている看板の前で堂々のゴルフ練習。俺は散歩している風を装い、二人のオヤジ達にそれとなく近づいてみる。どちらの顔を見ても、将来こんな感じにはなりたくないぶくぶくと脂肪がたまっている顔だ。二人ともサラリーマンの休日。同じようなダボっとした洋服でお腹を隠して、顔がでかい。こういうふてぶてしさがないと、ここでゴルフなんて出来ないんだろう。そこへ見たこともないほど姿勢の良い男がやってきた。
「こっちの方が飛ぶって〜」
 ゴルフのクラブを持って突如現れたのは、のろのろとスイングしていたオヤジたちとはあきらかに違う。鍛えられた肉体に作業着風の紺色のジャケットにズボン。長髪に載せた野球帽の下に隠された顔は、どこか昔ながらの男らしさが漂う。初老にも見えなくもないが、俺の親父と同じ50歳ぐらいにも見える。さらによくよく見ると、顔の色の黒さが尋常じゃない。この人はここで生活しているんではないだろうか。俺は心細さと、その裏腹の興味が先走る。この男がホームレスかどうか、正体が知りたいのだ。


ウィッチンケア第5号「今どきのオトコノコ」(P0144〜P149)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/19

vol.5寄稿者&作品紹介19 北條一浩さん

ライター/編集者として「西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事」「冬の本」などの書籍を手がけてきた北條一浩さん。私は北條さんの文章に接すると、いつも「言葉の力強い人」という印象を持ってきました。これ、説明が難しいんですけれど、「主張や意見が強い」とは違いまして、文章(文字の連なり)のなかで選んだ言葉が「立っている」というか...「Reelin' In The Years」のエリオット・ランドールみたいな。

そんな北條さんは、しかしお会いすると穏やかで物腰も柔らかで、やっぱりギターソロ弾きまくりではなく、きちっとフレージングを決めつつ曲全体の構成を考えるタイプなのかな、と。それで、「本をもって街へ出よう」で4月にお会いしたさいには、ジーンズのお尻のシルエットがかっこいいな、と思ってしまいました(どこ見てるんだ/陳謝!)。

北條さんの寄稿作「地上から5cm浮いていたあの時代のこと」は、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」を題材に、個人的体験を踏まえて1980年代前半の「時代の空気」を検証しています。<70年代の暗さと闇が喉元まで詰まっていながら──そうであるからこそ──『なんとなく、クリスタル』はそれらを拒絶する明るさをまとっていなければならなかった>という一節(フレーズ)を読んで私が思い出したのは、荒井由実のいくつかの歌。「『いちご白書』をもう一度」の<僕>や「卒業写真」の<あなた>(←たぶん学生運動のボス)を拒絶して、ユーミンは明るくモンスター化していきました。そして<僕><あなた>世代の尻尾のほうに属していた坂本龍一や平沢進は、挫折ではなく戦略で髪を切った...。

私自身も「明日の見えない受験生」から「ミッション系私大生」に環境が変化しまして、回し読みしている本が「二十歳の原点」や「男組」から、それこそ「なんクリ」に変わった時代でありました。そして田中康夫...室町砂場赤坂店に初めていったのは、この人の影響だったなぁ(そういうとこでデートしろ、とどっかの雑誌に書いていたw)。

『なんとなく、クリスタル』は、奇跡的なタイミングで、偶然のように現れた幸福な小説である。『33年後の……』のほうに、明らかに苦心がある、と思う。なにしろこれは著者が17年ぶり(!)に世に問う小説なのだ。この小説では、「水平」方向の推進力が、どこか足りない。それがどうしてなのかを言うことは難しい。例えば「今は不景気だから」というアホみたいな答えを用意することは可能だが、そんな理由でいいとも思えず……。

『なんとなく、クリスタル』のカバーイラストに戻る。ここに描かれた光は、明らかに朝日ではなく、午後から夕暮れのそれである。それは日本経済の落日を先取りしたものであり、超高齢社会が確実にやってくることの見通しでもあると思う。つまり、「終わり」がもう始まっていることの予感の中にある。と同時に、1980年はバブル前夜の時代でもあり、ここにはあのギトギトのバブル時代(それは85年のプラザ合意あたりから始まる)に至る直前の、不思議な清明感=クリスタルが漂っている。思うに、80年代初頭の数年間(私見では80〜83年までの4年間)は、始まってしまったものとまだ来ないもののあいだで宙ぶらりんになった、誰もが地上から5㎝くらい、微妙に浮いて歩いているような、おそらく「日本」が今まで経験したことがなく、しかもその後の時代に消えてしまったなにものかが、奇跡的に存在していた時期である。たとえ錯覚であったとしても、過去のルサンチマンから解き放たれ、衣食足りて、さてそれでは人はその後をどう生きるのかという、おそらく日本社会が主題として前景化したことがほとんどない(いや、それはもしかしたら江戸時代に実現されていたものをわざわざ放棄したのかもしれないが)事柄がそこかしこに見え始め、それだけで小説を書いてしまったら誰も見たことがないもの(=『なんとなく、クリスタル』)ができあがってしまったという、そういう時期だったと思う。それは、なにか可能性のカタマリ、のような感触のものなのだけれど、何に対しての、何に向かっての可能性なのかを言い当てることは、これはどうにもひどく難しい。


ウィッチンケア第5号「地上から5cm浮いていたあの時代のこと」(P0136〜P142)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/18

vol.5寄稿者&作品紹介18 播磨秀史さん

シンコーミュージックの編集者・播磨秀史さんとはずいぶんむかし、パシフィコ横浜でナイン・インチ・ネイルズを観た(調べたら2000年「Fragility」ツアー)帰りに下北沢でバーボンを飲んだことがあったのですが、その後FBで再会し、さらにご縁が巡り巡って今号へのご寄稿に繋がりました。

もうひとつ、これも「縁の巡り」だったのか、小誌正式発行(2014.4.1)の前日(3.31)には播磨さん責任編集の「下北沢ものがたり」という書籍が世に出まして、この本で私は「下北沢の変遷」という章と曽我部恵一さんのインタビューを担当。また仲俣暁生さんと小川たまかさんも同書に関わっておりまして...これらはすべて、トレント・レズナーが「The Fragile」をリリースしたことに起因...ってバカなこと書いていますが、しかしもし同アルバムがもっとサクッとした内容で1997~8年に発売されていたら私はたぶん観にいってないし、家が近くということで播磨さんと飲みにいったりもしてなくって...そういう「未来」もありえていたんだなぁ、と。

「ハリーの災難」は美馬亜貴子さんのご紹介でも触れた「クロスビート」の、人気コーナ(播磨さんの編集後記)。同誌の愛読者だった私は、エクステンデッド・エディットver.を掲載できまして嬉しい限りですが、これもアルフレッド・ヒッチコックが「The Trouble with Harry」を製作しなければ。。。たんなる読者だった頃、私は「なんでハリーさんには毎月毎月、災難が降りかかるのだろう」と思っていました。

今回、寄稿者と編集者という立場になり、ちがうかも、と。播磨さんの絶妙な姿勢/語り口によって、日常の何気ないできごともスリリングに描写されている!? 「巻き込まれている」風に見えて、じつはしっかりマイペースなのかもしれません。あっ、曽我部さんをインタビューしたさい、質問はおもに私でしたが、播磨さんは脇から畳み掛けて問うこともなく、相手が喋りやすい環境を整えるように、笑顔でときどき控えめに要点確認する感じ。この「スタンスの極意」が、“災難”すら魅力的に読ませてしまう、播磨さんの筆力の源なのだと思いました!

 その扉を開けた瞬間、部屋中に陽光が降り注いでいて、ちょっとクラクラした。3階角部屋の305号室は1階の部屋より窓も2ヵ所多く、朝から電気を点けなくてはならない103号室からすると、まるでパラダイスのように見えたくらいだ。窓を開ければ、そよそよと風が部屋を通り抜けていく。305は、103の隣の105(このマンションに〈〜4号室〉はない)と同じ互い違いの形で、押し入れやコンセント、ガスなどの位置は103と違うが、同じ建物の同じ間取りだし、特に大きく変わらないだろう。数分で僕は、大家さんと不動産屋さんを前に、「引っ越します!」と宣言していたのだった。
 そうして、恒例行事のフジロックの前に何とかかんとか引っ越しを済ませたのだが、僕の考えはだいぶ甘かったことがすぐに判明する。ほとんど同じように使えるだろうと思った部屋は、実はあちこちで大きな違いがあることが発覚。シンクの真横にある冷蔵庫スペースは数センチ足らず、冷蔵庫は買い換えざるをえなくなった。まあそもそも、友達からもらった3ドア冷蔵庫は、一人暮らしにはぜいたくなサイズだったのだが。前はテレビの正面に置けたソファも結構ズラして置かなければならなくなり、それまでかなり良好だったサラウンド環境も微妙な感じになってしまった。なぜかわからないが物干し竿の位置が物凄く高く、178センチの僕でも外して拭くのに背伸びが必要だ。しかし何よりも最大の問題は、台所の梁である。建蔽率の関係かどうかわからないが、ガステーブル用スペースの梁が内側に傾いていて、普通のガステーブルは上部が引っ掛かって置けないことが判明したのだ。

 色々と調べたところ、基本的に家庭用の二口ガステーブル(グリル付き)のサイズは、左右幅56センチか59センチの2種類しか作られていない。スペースの土台はその幅があるのだが、傾いた梁が覆いかぶさるのでスペース上部では56センチを切る幅しかないため、どちらのサイズも設置出来なかったのだ。選択肢は、IHのクッキング・ヒーターを買うか(高さが低いので、幅56センチでも梁に当たらず設置できる)、一口のコンロ(ギリギリ2台置ける)を導入するしかない。IHは火力に不安があったが、友達から大丈夫! という声があったので決断した。
 しかし、本チャンのIHは200ワットが必要で、電気工事をしなければならないことがわかった。賃貸でそれはたぶん出来ないし、100ワットで使えるものを入れることにした。でもやはりどうにもパワー不足で、やかんでお湯を沸かしても「シュンシュン!」と猛り狂うところまで行ってくれない。そのせいにするわけじゃないが、やる気がまるで盛り上がらず、せっかく買ったのにまるで料理はしていないのだ。しかも、調べてみたら、うちの鍋やフライパンは全てIHに対応していないとわかったのだ。何てこった!


ウィッチンケア第5号「ハリーの災難:住宅編」(P0130〜P134)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/17

vol.5寄稿者&作品紹介17 小川たまかさん

「下北沢経済新聞」編集長・小川たまかさんの寄稿作「三軒茶屋 10 years after」。あっ、小川さんのインタビューが、播磨秀史さんの編集した「下北沢ものがたり」に掲載されていますので、みなさまぜひぜひご一読ください! でっ、小川さんってアルヴィン・リー好き!? なんて思ったのはたんに私がそういう年齢だからですがそれはともかく前号では「シモキタウサギ」という、ちょっと癖の強い女子の物語でしたが、今作はガールズ・トーク、でいいのかな。

作品内での三軒茶屋と下北沢の距離感(心情的距離感)の描写は、土地勘があるとリアルに感じます。三茶のほうがまだ、町の変わりっぷりはゆっくりかな。環7と246の周辺には池尻大橋あたりまで、微妙に「むかし」が残っていまして、虫食いで新しいお店が混在しているのです。...それでも、やっぱり着実に変わっているよなぁ。小誌創刊号の拙作には「ツリボリ三軒茶屋」がまだ現役で登場しているし、昨年から今年にかけてFlap Notesdeborah.がなくなったと聞き、私的にはまだ「新しい店」も、さらに世代交替しているのかと。

しかし登場人物の「水村」という男の描かれかたが、私にはとてもおもしろかったです。女子からボロクソに言われてるんですが嫌われてはなく、でっ、水村は弁明できるようなシチュエーションではなく...羨ましいヤツだ。そして内容に深入りして感想を述べると、自分が「そういう年齢」ってことを露呈するだけになりそうですが(前作紹介でも怖じ気づきました)、最近のガールズトークらしきものって、題目はディープかつ広範になっているのに、その語り口はサラっとお上品で、なんか洗練されたよなぁ。

いや、そのむかし、土曜日のお昼に「独占! 女の60分」という番組があったのです。開始当時高校生になったばかりの私は、そこに登場する(水の江瀧子と丹下キヨ子はともかく)清水クーコ、泉アキ、キャシー中島ですら、異次元の猛獣のようにおそろしかったのですが...当時の彼女たちって、いまでいうアラサー(の20代側)だったのか〜、と。すいません(遠い目)。

「そのとき、一回だけ?」
「ううん、全部で三回。一回目にホテルに行ったとき、朝目が覚めて、『これっきりかもしれない、もったいないからもう一回やっておこう』って思って、私から『もう一回しよう』って言ったの」
「発想が男の子みたい。あと一回は?」
「その二週間後ぐらいにデートして、またホテル行った。そのとき、私高校時代からずっと水村のことが好きだったって言ったんだよね。そうしたらびっくりしてた。『嫌われてると思ってた』って言ってた。『鏡子といると、いつも睨むから』って」
「私はそれ、聞いたことなかったな」
「その後、水村は仕事で中国行っちゃってそれっきり。……それで、後から思い出したんだけど、バカみたいな話なんだけど、いい?」
「いいよ。もう充分バカみたいな話だよ」
「私、水村が好きですごく思い詰めてた頃、ちょうどさっき言った夢を見た頃ね、『一回だけでいいから水村とセックスしたい』って祈ったんだよね。で、その後でちょっと思い直して『一回だけだとそれが人生の思い出みたいになっちゃうから、三回だけさせてください、神様』って祈った。で、水村と三回セックスした後でそれを思い出して、神様ってすごいな! って思ったんだよ。でも私さー、なんであのとき、『水村と結婚したいです』ってお願いしなかったんだろう」
「恋愛依存症の沙羅には、セックス三回ぐらいがちょうどいいって神様も思ったんじゃないの」
「恋愛依存症じゃないよ、水村依存症だよ」
「あんた、ストーカーにならなくて良かったね」
「それで、生きてると思う? 水村」
 不意をつかれて鏡子はテレビを見上げた。沙羅も画面を見ている。
 水村は大学を出た後、エンジニアとして建設会社に入社した。鏡子と最後に連絡を取り合ったのは中国の僻地へ唯一の日本人として赴任する前だった。その後、行くことになったと人づてに聞いた。恐らくテレビに映っているあのプラントにいる。


ウィッチンケア第5号「三軒茶屋 10 years after」(P0124〜P129)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/16

vol.5寄稿者&作品紹介16 仲俣暁生さん

緩やかなつながりを持ちつつ「もうひとつのテーマ」も掘り下げられていく...仲俣暁生さんから寄稿作を受け取るたびに私は漠然とそう感じています。なんというか、顕微鏡でプレパラートを覗き(メインテーマを考察し)ながら、対物レンズそのものの特性もチェックしているのではないかな、と。

父という謎」では父親(そして吉本隆明)、「国破れて」では小島烏水と山岳書、第5号掲載作「ダイアリーとライブラリーのあいだに」ではアンネ・フランクと日記。異なる観察対象を論じた、それぞれ独立/完結した作品なのですが、しかし3作を串刺すように視線は一貫していて、おそらく仲俣さんは「記録すること/記録されたもの」によって浮かび上がる公私の関係性をチューニング(書いてみることで焦点調整、みたいな)しているのでは、とも。もしそうであれば、今作のタイトルは、とても暗示的ですし、無事調律の暁には、ぜひステージ(書籍)に、と願います!

作品内では「親愛なるキティーたちへ」(小林エリカ著)についても、「アンネの日記」との関連で語られています。<親の日記をもっと有用に役立てた例>として、ご自身の家族のエピソードとの対比で...「家族を語ること=時代を語ること/私の記録=時代の記録」ということについて、小誌寄稿作での仲俣さんはかなり意識的なのだと思います。ある種の「ポップな作品」は不特定者が代入可能な「私」の創出だとすれば、その反対の方向性を検証〜試行している!?

そして日記という表現について。私はたぶんこども時代の宿題を除き、一生日記を付けずに生涯を終えるでしょう。自分にとってはテキストのデジ化以降、SNSやHDが充分すぎるほど日記的だし(「沖で待つ」を思い出した)。ネットで公開されている日記は、かなりシニカルに読むことが多くて、たとえば一昨日と今日に「○○に会って●●を食べた」と書いてあったら、では空白の昨日は? みたいに「なにを書くに値すると思っているのか」や「なにを書けなかったのか」が気になったりするのです〜、失礼!

『アンネの日記』という本を私たちがいま読めることは、本をめぐる奇跡の一つである。アンネ・フランクは13歳のプレゼントに父からもらった可愛らしいノートに、自分のための「日記」としてこの記録をつけはじめた。1942年6月12日である。まもなくフランク一家は、「後ろの家」に隠遁を決意。1944年8月4日に、密告がもとでこの隠れ家を出なければならなくまで、2年2ヶ月弱をこの「家」で過ごす。アンネは1944年の春、ロンドンから流れてくるラジオ・オーラニェで、オランダ亡命政権の文部大臣による放送を聞き、解放が間近いと知る。同年5月11日の日記に、彼女はこう書いている。
「あなたもとうからご存じのとおり、わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になることです。はたしてこの壮大な野心(狂気?)が、いつか実現するかどうか、それはまだわかりませんけど、いろんなテーマがわたしの頭の中にひしめいていることは事実です」(深町眞理子訳、『アンネの日記』増補新訂版、文春文庫)
 アンネ・フランクはこの夢を結果的にかなえることができたが、彼女自身がそのことを知ることはなかった。
 同年6月6日にノルマンディーに上陸した連合軍がアムステルダムを解放してくれる日を、彼女は指折り数える。解放後、アンネ・フランクはみずからの日記を資料として、本格的な著作を書くつもりだった。そのために『アンネの日記』には複数バージョンの草稿があることが知られている。つまり『アンネの日記』は、途中からはたんなる「日記」ではなく、ジャーナリストを志す少女の、戦時下の観察記録でもあったのだ。だが、D – デイから約2ヶ月後、アンネ・フランクの人生は暗転する。ジャーナリストとしての優れた才能をもちながら、彼女はその後の日々については、何も書き記すことができなかった。
 日記という私的な記録は、時をこえることで、個人の記録を超えた歴史の記録になりうる。だがそのためには、多くの偶然や奇跡、あるいは間に立つ人たちの努力と忍耐が必要なのは言うまでもない。そのようにしていま、私たちの目の前には、『アンネの日記』という偉大な本がある。


ウィッチンケア第5号「ダイアリーとライブラリーのあいだに」(P0118〜P123)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/15

vol.5寄稿者&作品紹介15 将口真明さん

ウィッチンケアはKitchenwareのアナグラムでして、名の由来のひとつは発行人が「身の丈(台所まわり)の目線で書くしか自分にはできないし〜」という小ぢんまりしたものだったりするのですが、しかし将口真明さんは今回、未来の異星での物語「葬儀、ケンタウロスαの流儀」を寄稿してくださいました。...ええ、大丈夫ですよ。台所まわり、はもちろん比喩。私も<テカポ星〜地球から四・四光年の彼方/光速の十分の一で飛ぶロケットで四四年かけて到着>を身の丈に感じて物語を書けるようになりたいです!

将口さんは2010年に「マナをめぐる冒険 魂を潤す究極のレシピ」を上梓。同作品はアマゾンの【内容説明】では<「食」こそ、人として生きるための要です。ネットワーク社会が進んだ未来世界。人として生きるために、心の救済のために、魂に滋養を与える食べ物が必要となってきます。そうなる前に、現代への食の警鐘 >とあり、通常業務で短くもなく将口さんにお世話になってきた私は、びっくりしたものです。もの書きとしての将口さんの内面には、こんなスピリチュアルな世界が広がっていたのか、と!

出版プロデューサーとしての将口さんはミリオンセラーの「ビストロSMAP」レシピシリーズを始め、数々の本を世に送り出してきました。私もライターとして少なくなくお手伝いさせてもらい...キムタクをインタビューした際にずっとボールペンを手のひらで回していたことがなぜかいまも忘れられませんw。あっ、テレビ好きな人だと、「メレンゲの気持ち」の「ありえないグランプリ」に出ていた将口さん、で覚えているかも。

そんな将口さんが抑制の効いた筆致で書き下ろした「葬儀、ケンタウロスαの流儀」もまた、食を通した死生観や文明についての物語。いつぞや打ち合わせのさいにいただいたメモには、<遠未来の世界では、死への旅立ちは人生最高のお祝い/いかに魂を燃焼させて生きたか>と書かれていました。...唐突に、現代人以外の生物のもっとも手っ取り早いアンチエイジングは代替わり、なんてことを思い出したり...。

 山街ポカラには、人間の肉を調理する専門のホーリー・フーディアンズ(聖食者)と呼ばれる技術集団がいる。聖食者達は、鋭利なシルバースウォード(銀剣)を使って、死体の皮を丁寧に剥ぎ、骨の際まで刃先を入れて切り分ける。薬効のある内蔵、肝臓や心臓は、それを必要とする妊婦や老人にまわされる。肉はおおむね生で、固い部分の筋肉は煮られて食される。血は一滴たりとも無駄にされない。
 何人もの聖食者が細かい作業を繰り返し、兵士の身体から剥がれた皮はあぶられ、肉はももや腹の脂肪分の多い部分は焼かれ、胸や首筋の部分は生で、皿に盛られる。血はどぶろくに混ぜられるか、酒の飲めない子ども達には山羊の乳に混ぜるかする。山街の全員が集まり、皿を回し盃を回して、戦士達の勇敢さを讃える歌を歌ったりしながら口を動かし、飲み下す。テカポ星の空を彩る、レッド・ムーン、オレンジ・ムーン、ブルー・ムーンの三つの月のうちのどれかの新月に祈りをささげながら、身体は熱くほてり、男はいつか自分が勇者として死に旅立つことを夢見る。女はいつか自分が勇者を産むことを夢見る。
 海街ラハイナでは殺した敵兵、山街ポカラの兵士は喰わない。自兵同様に敵兵に敬意を払うのは同じだが、送り船と呼ばれる筏で沖合にこぎ出し、聖なるポイントで海に沈める。兵士の肉は魚たちに食され、私たちは魚を獲って喰う。勇者の肉を喰う、という意味では同じ事だ。

ィッチンケア第5号「葬儀、ケンタウロスαの流儀」(P0110〜P116)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/14

vol.5寄稿者&作品紹介14 中野純さん

中野純さんが凄いのは理論と実践が一致しているところ。口先だけでは軽く見られる、黙して語らずやることをやるはカッコいいがそんな高倉健だらけの世の中じゃ殺伐、やはり凄いの域までいくには言行一致...しかもそのどっちもがやや過剰気味だと、もの凄く凄い!?

20代のころから、中野さんの印象は「行動派」。ホーミー極デジ化奪衣婆etc....政治的意味合いではなく、activismの人(「みんな見ているだけなら、オレ1人でもやる」的な)。でっ、初期衝動で突き動かされたことをきちんと説明できる。なんか、パンクだけど技術が際立ってる、みたいで、そういえば中野さんがピストルズやクラッシュを褒めてた記憶はなく、ジャン・ジャック・バーネルとかジョン・フォックスとか...美意識も際立ってる!?

そんな中野さんの小誌第5号寄稿作「自宅ミュージアムのすゝめ」に登場する「少女まんが館(女ま館)」も、中野さん(と大井夏代さん)が1997年から実践しているプロジェクト。作品内では<日本のおたく大国化と全国総密室化の解決策>(要旨)という、デカい問題への論陣を張っていますが...いやいや、同館の挨拶文から察するに、中野さんはもっとばかデカいスケールで自宅ミュージアム化計画を捉えているな、と。ぜひ国連にでも招かれて、この素晴らしいアイデアを開陳してほしいと思いました。

そして個人収集家は「半開きでもいいからとにかく開くこと」と、自分の問題としても強く感化されました。いやね、私は「おたく」ではないと思いますが、それでも「非常に偏った音楽コレクション」を多少は持っていまして...でっ、なんでこんな慇懃な書き方するかというと、じつは10年くらい前までは「○○に関してのコレクションは凄いんだぜ」みたいな密かな自慢気分を持っていたのですが、ある日心ない知人に「あんたのレベルじゃ詳しいとは言えない。○○さん(ホンモノの音楽評論家)なんて〜」と思い切り叩かれまして、以後しばらくは「私、自称音楽好きです〜」と卑屈になり(苦笑)...つまりなにが言いたいのかというと、「閉じてる」人は傷つきやすかったりもするので、小さなプライドなどさっさと捨てて開いたほうが、ずっと世界は広がるぞ、みたいな。

 自宅ミュージアムの持つミュージアムとしての潜在能力は計り知れないほど大きい。
 ひとつひとつの自宅ミュージアムはたいしたものではないかもしれないが、自宅ミュージアムが増えていけば、総体としてはものすごい質と量になる。
 制服の第二ボタンのように、一般的価値がなく、なかなか蒐集されていかない物も、個人のこだわりによって保存され、集積されると価値が生まれて文化として認知される。そうして保存されていくものの幅が大きく広がる。
 また、同じジャンルの物を蒐集する自宅ミュージアムが各地にできると、一点物以外なら、万一の盗難や焼失、破損などがあっても、お互いがお互いのバックアップになりうるので、総体としての保存能力は高い。
 個人がミュージアムを運営することに対して、文化遺産の永久保存という観点から、否定的な見かたをする人は多い。個人のコレクションは個人の死とともに散逸する恐れが大きいから、保存の機能が一代限りになるというのだ。だが、そんなことはないと思う。むしろその逆で、自宅ミュージアムをやることで、一代限りで散逸するはずだったコレクションが個人の死を超えて受け継がれる。
 おたくが独自のこだわりを持って集めた物はそのままでは散逸しやすい。ふつうは家族が理解してくれないから、自分が死んだとき、遺族によってゴミ同然に処分されてしまう恐れが大きい。それは文化的に大きな損失だし、本人も残念だろう。
 だが、自宅ミュージアムにして、自分が生きているうちにそのコレクションの価値を社会に知ってもらっておけば、自分が死んだとき、雑に扱われる可能性が格段に低くなる。価値をよく知ったコレクターに引き取られたり、大きなミュージアムが受け容れたり、自治体などがミュージアムを引き継いでくれたり、遺族なり他人なりが自宅ミュージアムの形で引き継いでくれるかもしれない。

ウィッチンケア第5号「自宅ミュージアムのすゝめ」(P0104〜P109)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/13

vol.5寄稿者&作品紹介13 かとうちあきさん

まずは、この歳になってあらためて「ど根性ガエル」について考えるきっかけをくださったかとうちあきさんに、深く御礼申し上げたく存じます。そうか、ピョン吉は<ひろしがゴリライモと石神井公園で決闘しているさいに押し潰されたが根性で平面ガエルとして生き抜いた>という設定なのか...夕方の再放送アニメでずいぶん見た記憶があるけど、そもそもなんで? は一度も考えたことがなかった(でもそんなこと考え出したら、なんで喋るんだ、とか/きっと根性で喋るんだw...)。

幼稚園から小学校2年まで、仙台に住んでいました。もう記憶も断片的ですが、家の近くに田んぼがあって、バス通りを挟んだ向かいには小さな池があって、春になるとものすごい数のおたまじゃくしがカエルになって池まで移動して、大虐殺としか言いようのない光景...アスファルトにはピョン吉になれなかった屍だらけ〜見ているあいだにも「パン、パン」と轢かれて弾ける音がする、という。最近は生活していてカエルを見かけることなどめったにありませんが、1950年生まれの吉沢やすみさんがピョン吉を生み出した背景には、カエルだらけだった日本にモータリゼーションの波が押し寄せたという歴史的経緯!?...。

かとうさんの寄稿作「カエル爆弾」に登場する、生き物との記憶。第3号掲載作「台所まわりのこと」にもいろいろ出てきまして、前号掲載の「コンロ」では男子が現れてほっとしたのですが、ああ、またもや蟻、蝉、金魚、ミドリガメ、そしてカエル...えっ、文中にはハムスターや土鳩も登場しますが、それらににまつわる「なかったこと」にしたい記憶も、あるのかな!?

私に関して言えば、魚類/甲殻類/昆虫類/両生類/爬虫類あたりは、その形状から怪獣退治のような気持ちで殺生してきたような気がします。しかし鳥類になると、個人的にはもうダメかも。高校生の頃「村さ来」にスズメの串焼きがあって、こんなもん食べなくても人は生きていける、と思った。

 これで果たして、カエル爆弾のかわりになるだろうか。不安である。
 けれど、亀。
 亀ならどうだ。
 ミドリガメをすくう亀すくいは300円と高いので、それしかできなくなってしまい問題である。しかもすくえたひとしかもらえないし、ちっともすくえないようにできているので大問題だ。縁日の日、最初から終わりまで屋台にはりつき見ていても、亀をもらえたひとはほとんどいなかった。
 でも、4 年生だった夏の途中。新顔のお兄さんが出店していたのは違ったのだ。6人に1人は成功している。
 そこで3 0 0 円を投入すると、子ども用にさらに丈夫なポイをくれたのか3匹もすくえてしまい、えっへんわたしは、得意げに持ち帰った。
 ミドリガメはかわいい。実はどんどん大きくなり場所をとって苦労するらしいのだが、大きく育てられるということは飼いやすいってことでもあるのだろう。
 かわいいかわいい。最初は外に出してずっと眺めていたのだけれど、すぐに飽きて水槽の掃除もせずにほっておいたら、一面緑の藻だらけになってしまった。亀たちもより一層ミドリミドリして、いやな臭いがする。
 甲羅干しをするといいかもしれない。
 (いいことをしている)、満足した心持ちでわたしは水槽をベランダに出したのだが、そのまますっかり忘れてしまった。
 真夏である。5日後、恐る恐る見ると、案の定。水は干上がり、亀たちは死んでいた。苦しかったのか、みんな首を長く出して。しかもなんということだろう。彼らは腐っているようで、その亡骸にたくさんのコバエが湧いているではないか。
 あんまりに恐ろしいのでほっておいたら、半月後、彼らはすっかり乾いてミイラみたいな顔になった。まだ恐ろしいので、さらにほっておいたら、ついに甲羅だけになったので、ほっとしてお墓を掘って甲羅を3つ埋めたのだった。


ウィッチンケア第5号「カエル爆弾」(P096〜P103)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/12

vol.5寄稿者&作品紹介12 辻本力さん

小誌第4号に「酒のツマミとしての音楽考」というエッセイを寄稿してくれた辻本力さんは、個人誌「生活考察」の発行人。同誌の最新号(vol.5)は「食」がテーマでして、辻本さんはご自身の掲載作で「汁めし」について考察しています。

「汁めし=総合栄養食」という定義のもと、具材に関する深〜い話が展開するのですが、なにより私が驚いたのは、辻本さんの家の冷蔵庫に、豊かな食材が常備されていそうなこと。「さくっと食べて、仕事に戻る」ための家1人昼ごはんに、海苔やとろろこんぶや梅干し、あたりはまあわかるけど、蓮根や牛蒡、小松菜や春菊なんかも使う(使用可能な状態である)のか、と。私なんて、そういう場合はたいてい「おひつごはん」で済ませていました(炊飯器のおひつに残っている冷飯にふりかけとか佃煮とかをかけて流しの前で立って食べてそのまま水を張っておしまい/約1分)。

「退廃的な、おそらく退廃的な」と題した今号への寄稿作でも、辻本さんは「趣味は料理」と書いています。でっ、そんな(けっこうきちんと生活している)自分が、なぜ「退廃的な音楽」「不健康な音楽」を好むのかについての考察が繰り広げられていまして、とくに「ある種のアティテュードのようなもの」という言葉で「だらしがない」と「退廃的」の違いを語っていることに、私は深く肯きました。

最近の私はもう「ロックとはなにか?」みたいなことは考えず、ただただマイペースに自分の好きな音楽だけを選んで聞いています(...ってことは、むかしは考えていたんですけどね)。ロックとはなにか? う〜むっ、やっぱりそれはある種のヴィジョンというかスピリッツというかアティテュードというか、みたいなものがきちんと音に投影された楽曲であって、決してだらしない感情を剥き出しにしたものではないと思うのですが(誰か、またいつか語り合いましょうw)。

 私がずっとロック・ミュージックを中心に音楽を聴いてきたのは、ロックの不健康性に惹かれてのことだと思うのです。不健康とロックの相性の良さは言うまでもありません(「セックス、ドラッグ、ロックン・ロール」なんて常套句を持ち出すまでもなく)。ロックンローラーたるもの、不健康であるべし! ロックンローラーは「親をリスペクト」「君がいたから頑張れた」みたいな歌は歌いません(たとえ思っていたとしても)。身体だって、そんなにムキムキに鍛えなくてもいいじゃないですか。マッチョなトレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)よりも、デブったマンソンの方が(そりゃ痩せてて欲しいですけど)やっぱりステキですよ。
 そんなわけで、わりと一貫して、退廃的な音楽の嗜好を保ったまま三十代も半ばになるわけですが、ここでひとつ告白をすると、私の生活は退廃にはほど遠く、たまにちょっと飲み過ぎる日があるくらいで、わりあい健康的と言ってよいでしょう。ちなみに趣味は料理です。ご飯には雑穀か玄米を混ぜて炊きます。さらに、昨年末からは休肝日を設けるようになった他(以前は一年のうち、三百五十五日以上飲んでました)、週に何度か、ウォーキング&ジョギングもするようになりました。
「おい! 何が退廃だよ、健康志向じゃねぇか」
 そうなのです、私、退廃的な音楽が好きなだけで、ぜんぜん生活は退廃的じゃないのです(健康志向かというと必ずしもそうではなくて、美味しいものを飲んだり食べたり出来なくなるのが怖いので、最近多少健康に留意するようになっただけなのですが)。
 でも日本で、本当の意味で退廃的な、破滅的な生活を送ることは、そもそも可能なのでしょうか?


ウィッチンケア第5号「退廃的な、おそらく退廃的な」(P090〜P094)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/11

vol.5寄稿者&作品紹介11 久保憲司さん

うわっ、クボケンさん、恋愛小説ではないですか!! 久保憲司さんからの原稿を受け取るときはいつもドキドキするのですが、今回はいままでと少し違った意味合いで、心ときめいてしまいました。というのも、作品内で描かれた「マサッチ」という女性が、とっても魅力的だったからです。

僕と川崎さん」(第3号)、そして「川崎さんとカムジャタン」(第4号)...久保さんのこれまでの作品には「川崎さん」という不思議な男性が登場し、「僕」との関係性で物語が進行していました。しかし今回の「デモごっこ」では、もしかすると高円寺のデモシーンのどこかに川崎さんがいるのかもしれませんが、少なくとも作品内ではまったく姿を見せず。代わりに「僕」に寄り添っているのは、マサッチさん。「現代アートが好きな普通の女の子」と描写されていますが...そんな、キャリア20年以上の学歴のないドラッグ売人(←作中の「僕」)に、こんなにもやさしく接してくれる女性が「普通」だったら、この世界はもっと愛に満ち溢れていたかもしれず...普通じゃなく、女神さまのように私には思えました。

作品内に何度も登場するジョン&ヨーコが、僕とマサッチの関係にダブります。マサッチは自身の感受性を信じて行動する僕の、最大の理解者。そして2人が一緒なら、誰にどう思われても、きっとこの世の中を変えられる...僕とマサッチはノンポリでカッコいい若者が集まる反原発デモに参加しようと、羽根木から渋谷までタクシーで角棒や軍手やヘルメットを買いにいきます。東急ハンズとロフトのどっちに、よりダサくないデモアイテム(!?)が売っているか、なんて相談しながら...。

「オノ・ヨーコ嫌い」と言ったマサッチを、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやラ・モンテ・ヤングを引き合いに出して熱く説教する僕、というシーンには思わず笑ってしまいました。こういう男子の話を「普通の女の子」が、まともに聞いてくれる!?...やっぱりマサッチは女神さまではないかと、羨ましいくらいの恋愛指数の高さにあてられっぱなしで。

 ロフトに角棒は売ってなかった。ロフトから歩いて5分の東急ハンズに行ったら、そこにはちゃんと60年代の学生運動を彷彿させるような美しい角棒が売っていた。値段はいくらだったか忘れたが、800円はしなかったような気がする。さすが、東急ハンズだと思った。
 角棒を持ってもささくれが刺さらないよう、軍手も一緒に買おうと思いついたが、何事にもおしゃれなマサッチは軍手には拒否反応をしめすかな、と恐る恐る「学生運動ファッションアイテムのひとつ、軍手も買わない?」と聞いたら何一つ文句を言わなかった。
 ラッキーと思った僕はすかさずヘルメットも見に行こうとしたのだが、マサッチは「ロフトの方がカッコいいの、あるんじゃない」と恐れていたことを提案してきた。「嫌だー、普通の日本的な白いヘルメットがいい。学生運動といったら、白いどこにでも売っているヘルメットでしょう。ヨーコさんもジョンもそんなヘルメットに全学連とか何とか書いているんだよ。俺も反核って書く」とダダをこねたら、彼女は僕に、家を出る前にiPhone で見せたプラスチック・オノ・エレファンツ・メモリー・バンドの映像を見せようとする。
「何だよ」という僕にマサッチは「よく見なよ」と冷めた声で答える。
 ヨーコさんとジョンが被っているのは、初期の大友克洋なんかの漫画に出てくるような日本の土方ヘルメットじゃなく、NYの工事現場で被るような、ちょっと突起が出たオシャレなものだった。僕は初めて気づいた。他のメンバーは黄色とか、赤のヘルメットなんかも被っている。そりゃそうだ。ヨーコさんたちがNYでピース・コンサートをやろうとして、日本の学生運動にリスペクトを込めて彼らのマネしようと思っても、日本の工事現場のヘルメットなんか手に入るわけはない。


ウィッチンケア第5号「デモごっこ」(P082〜P088)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/10

vol.5寄稿者&作品紹介10 武田徹さん

小誌第2号で自身の詩へのスタンスを考察し、「終わりから始まりまで。」という作品を寄稿してくださった武田徹さん。その後、昨年の仲俣暁生さんとの対談では、ジャーナリストの立場から「言葉をメディアとして飼い慣らし、事実を伝えるために伝えられるか、ということを長く考えていた経緯がある」と語っていたのが印象的でした。

「カメラ人類の誕生」と題された今号への寄稿作でも、武田さんは詩(「詩的」なもの)についての考察を続けています。論じられているのは写真家・中平卓馬と作家・片岡義男の、表現者(というより記録者、かな)としての姿勢の共通点で、両者の作品や作風を子細に分析しながら、写真と「詩的」なものとの関係性を解き明かして...ってわかったような大雑把な文章で紹介していますが、武田さんの考察は、たとえば「写真家・中平卓馬」については彼の言葉にも注目し、「作家・片岡義男」については彼の写真家としての側面にも注目する、という重層的な構成であります。

武田さんの寄稿作を読んで、あらためて自分が「写真という表現」に対して脇が甘いまま生きてきたなぁ、と実感しています。あたりまえのように使っていた「写真」という言葉。その語源をネット検索するとカメラ・オブスキュラ(Camera Obscura)やphotographyの訳語らしい「光画」にいきあたり...こどもの頃から器機の扱いが苦手でカメラを日常的に使うようになったのはスマホからなんです〜、なんて言い訳するわけにもいかないので、たとえば自分がもうちょっと意識的な(との自覚はある)音楽や味覚に対するスタンスを応用して、今後は写真に接していこうと思います。

そして最後に、下記引用は「カメラ人類の誕生」前半の中平に関する部分ですが、後半の片岡に関する<かつて筆者は彼のエッセーの文体が「〜た」で結ばれる語尾を多用していることに注目、それはフランス語の単純過去に近いものなのではないかと指摘したことがある。>という展開も、読み応えがあり...やはり本作を通して読んでいただくことを、発行人としては切に願うのであります!

 投書の主は「かつて、あなたの捉えた海辺の光景には、詩が感じられた。ぼくの心の奥をかすめてゆく波頭の感触があった」と書く。しかし今の中平はそうした写真を撮らない。そのことを残念に感じているという投書に対して中平は、まさに「詩」が問題なのだと答える。「たしかに私の写真から投稿者が〈詩〉と呼ぶべきなにものかが喪われていったことを私は認める」。しかし、それを中平は憂うべきことと考えない。写真の本質を突き詰めた時、それは当然到達すべき場所だった。神が死に、王が去った近代社会で、人々は誰に邪魔されることなく世界と向き合えるようになり、世界それ自体を私的所有欲の対象とするようになった。写真芸術もその例外ではない。写真家は世界の一部分を切り出し、それに意味づけをして私有し、作品とする。それが成し遂げられてこそ写真は芸術の域に達すると考えられるようになった。中平のいう「詩」とは、写真家や写真を見る者の側から世界に与えられた意味づけのことに他ならない。
 しかし本当の世界は私的に所有できるものではない。写真に「詩」を写し込む、あるいは写真から「詩」を読み取ることは、世界を自らの「詩」の間尺に縮減させ、手っ取り早くそれを所有しようと目論むことだが、実は所有が可能だと考えた時点で世界の真相は失われている。「詩」を感じさせる写真は、実は世界を隠蔽しているのだ。
 こうして写真のあり方それ自体に疑問を感じていた中平は、世界をそのまま直示する記録としての写真、図鑑に使われているような対象を明快かつ直接的に示す写真が撮れないかと考えた。しかし成果が出せずに悶々とする。自分の作品にもまた「詩」の余韻があると思いつめた中平は、自ら過去のネガやプリントを焼却してすらいる。


ウィッチンケア第5号「カメラ人類の誕生」(P074〜P080)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/09

vol.5寄稿者&作品紹介09 長谷川町蔵さん

タイトルになっているのはどちらも喫茶店名でして、べつに殿下がアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンみたいな音楽やるためにニューバンドを組んだわけではなく...作品内では「マチダ」と表記されていますが、これは長谷川町蔵さんと縁の深い東京都町田市を、限りなく想起させる作品です。

冒頭には小誌前号掲載作「ビッグマックの形をした、とびきり素敵なマクドナルド」に登場したマックが出てきます。続いて、周辺の風景描写...このあたりにはまだむかしからあるお茶屋さんや床屋さんも残っていますが、まあでも、あとどのくらい持つんだろうかという感じでして、なにしろ本作の重要な舞台である「珈琲の殿堂 プリンス」自体が突然なくなってしまったのですから。じつは寄稿作について打ち合わせをしていた昨年の時点では、まさか閉店とは私も長谷川さんも思っていませんでした。

一方の「ノイズ」は、いまや老舗の風格すら漂わせて健在。同店がテナントとして入っているJORNA(←この名前、どう考えても相鉄JOINUSのインスパイア系...)はリニューアルでDJブースがなくなったりしましたが...あっ、なんだか限りなく話題がローカルだな。とにかく「プリンス・アンド・ノイズ」はマチダをちょっと知っている小田急線/JR横浜線/東急田園都市線界隈の方なら、ディテールまで気になる青春小説です。もちろんマチダとは所縁のない人にとっても、作品内に描かれた「ぼく」と「ブリューゲル楓」さんの関係性には、胸がときめくはず(ちなみに本作は長谷川さんがご自身のブログに掲載した「あたしの少女時代 」のスピンオフという関係性)。...そして私は、現在発表されているマチダを舞台にしたいくつかの掌編が、いずれ有機的に結びついてもう少し大きな物語へ発展していくことを夢見ています!

物語の最後、ぼくは<聴いたこともないような不思議な感じの曲>に心を揺さぶられます。その曲はリターン・トゥ・フォーエバーの「ソーサレス」と書いてありまして、私はこの翻弄されているような場面が忘れられません。興味のある方はぜひ聞いたり邦題を調べたり、ぜひぜひ。それにしても「ノイズ」、私はむしろ下北沢にあった頃によくいったもので(以下個人的思い出話になりそうなので、略!)。

 Facebook の書き込みは今考えると恥ずかしい呪詛だらけになった。ナベちゃんは最初こそ励ましのレスを書いてくれたけど、やがて「いいね!」だけになり、そして無反応になった。そんなところにブリューゲルさんからフレンド申請が届いた。彼女とふたりで会話らしいものを交わしたのは1回きりなのだけど。
「『アメトーーク』ってもう終ってるよな」
「そのことが分っているのはこの教室ではうちらだけだよ」
 あの時は、自分の足が地面からちょっと浮き上がったような気がした。
 赤く歪んだ階段を昇っていくと、「三浦しをん様の推薦で珈琲プリンスがTBSテレビで紹介され放映されました」という張り紙と映画『まほろ駅前多田便利軒』のポスターがピンク色の壁にぞんざいに貼ってあるのが見えてきた。緊張しながら白いドアを押して店内に足を踏み入れた。
 珈琲プリンスは魔界だった。出迎えてくれたのは、壁に立てかけられた中世ヨーロッパの甲冑。天井にはステンドグラスがびっしり貼られ、座席の間には観葉植物が鬱蒼と茂っているため、客がいるのかいないのかすら分らない。床のところどころからギリシアの神殿みたいな柱がそびえ立ち、その上にはヒョウの剝製やガラス細工の巨大な白鳥が飾られていた。ふと誰かに見られていると思って振り向くと、トナカイの剝製の首がこちらを睨んでいた。
「タキグチ、そっちじゃないって」
 声がする方角を見ると、ブリューゲル楓がゆっくり手を振っていた。随分、会っていなかったというのに、土日明けのような感慨のない表情をしている。彼女はみんなから忌まれている例の灰色緑の制服を着ていたけど、植物だらけの店内にはマッチしていて、シックにすら見えた。テーブルには既に飲みかけのブラックコーヒーが置いてあった。
「ここってスタバより安いくらいだから安心しなよ」
 450円のコーヒーを注文すると、黒いタキシードに身を包んだウェイターがその価格に見合わない恭しい態度でそれを持ってきた。ぼくはそれに子どもっぽいと思いながらも角砂糖を2つとミルクを注いだ。
「ここ超ウケる感じでしょ? 放課後いつも寄っちゃうんだよね」


ウィッチンケア第5号「プリンス・アンド・ノイズ」(P066〜P072)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/08

vol.5寄稿者&作品紹介08 桜井鈴茂さん

私もまた諸般の事情で短くもなく旅に出かけることのない生活を続けていますが、しかしおさまりの悪い性格ゆえ、いずれがんばって再度旅人になるかもしれず...いや、旅は「がんばってするもの」だという思いが私にはあるのです。なんというか、「軌道修正のきっかけ」みたいなものが旅なのではないか、と。桜井鈴茂さんの小誌第5号への寄稿作を読んで、あらためてそんな思いを強くしたのでありました。

昨年のいまごろ「冬の旅 Wintertime Voyage」を読み感動しました。同作品のタイトルにも旅という言葉が使われていますが、きっと桜井さんも「○泊○日△×◎を巡る観光ツアー」みたいな旅は、苦手なのではないかな。私は短かった勤め人時代に「社員旅行」「部署旅行」を数回経験したことがあり、う〜む、あれはいま思い返せば、まあ、楽しかったっていえば楽しかったような気がしないでもないですが、やっぱり「みんなで今期の予算達成したら旅行しようぜ」みたいな集団からは、はみ出すべくしてはみ出したというか。

「ここではないどこかへと絶えず思ってきたし今だって思っている」と題された寄稿エッセイは、今夏刊行予定である桜井さんの新作「どうしてこんなところに」のサブテキスト的な性格も帯びた作品です。<ここではないどこかへ>という思いを<陳腐の域>と表現しつつも肯定し、さらに<旅に出たいなあ、なんてことだけを表すおめでたいものではなく。そこには、まだ見ぬ「どこかへ」に託す希望はもちろんだけど、それ以上に、自分の暮らす土地だったり生きている現状だったり置かれた境遇だったりする「ここ」への失意や倦怠や嫌悪、そして「ここ」を脱出する覚悟なんかも含有されているのだから>と分析していて...つまりこの思いは「向上心」と言い換えることも...いや、そんな言葉で表現してしまったら、陳腐どころか身も蓋もないか。「それってつまり●●ですよね」みたいな説明ではこぼれてしまう大事なことを表現するために、書き手は膨大な言葉と格闘するのですから。

寄稿作の終盤では、<ここではないどこかへ>というフレーズと新作のタイトルとの関係性も明かされていきますので、桜井さんの小説ファンには、ぜひ読んでいただきたいです。...そしてこの紹介文を書きながら私の頭のなかではなぜか古い歌謡曲が鳴り続けていまして(どうもサビのフレーズが寄稿作内の言葉と勝手にリンクしてしまった模様)...すいません、桜井さん。またイアン・マッケイやガイ・チャドウィックの話ができること、楽しみに!

 いや、旅自慢をしたいのではなく。さぶい戯れ言であなたの首筋に鳥肌を立たせたいのでもなく。ぼくが言いたかったのは……実家を出て以降、東京と横浜と札幌と京都と川崎にしか住んだことはないけれど、旅に出たい旅に出たいと欲しながらとりわけここ数年はいかんともし難い事情でなかなか出られなくなっているけれど、そして、ロスだろうがリオだろうがハルだろうがとにかく異国の地に住み着いてナタリー・ポートマンとか十五年くらい前のジュリエット・ビノシュとかをちょっと髣髴させるちょっとブスだけどすこぶるチャーミングな女性と懇ろになってコカインをきめてから天国を時速百マイルで突き抜けるようなファックをしてヘンリー・ミラーよろしく猥雑にして崇高な小説を日々書き綴る、なんていう夢あるいは妄想は依然として夢あるいは妄想のままだけれど、それでも、ここではないどこかへという欲望、いや、たぶんある種の病気が、ほとんど絶えず自分を突き動かしてきたのは、間違いないということなのだ。
 前置きが異常に長くなったが、許されている紙幅の大半をすでに使ってしまった気もするが……いや、後出しじゃんけんみたいで少々恐縮ながらこれはもはや前置きなどではない!と断言しよう、とまれ、ここじゃないどこかへ、というフレーズが、ぼくの心の誰も入れない小部屋の黄ばんだ壁に錆びた画鋲で留められていなかったら、いくら懇意にしている編集者が提案してくれた話だったとはいえ、困窮や失意その他でにっちもさっちも行かなくなりかけていた当時のぼくにとっては恩寵のような話だったとはいえ、ほんの数日前、一年数か月にわたる連載をようやく終え、おそらく初夏か、遅くとも晩夏には単行本として刊行されるはずの、クライム・ロード・ノヴェル(と銘打ったのは編集者です)『どうしてこんなところに』を書くことはなかったかもしれない。


ウィッチンケア第5号「ここではないどこかへと絶えず思ってきたし今だって思っている」(P050〜P058)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/07

vol.5寄稿者&作品紹介07 美馬亜貴子さん

昨年休刊した「クロスビート」の創刊号(1988年)を、私は新宿の紀伊國屋書店で買いました。エスカレーターを上がってすぐ右側(そのむかし「侍」というジャズ喫茶があった場所)に、デヴィッド・バーンが表紙の雑誌が平積みされていて、おお、かっこいい! と。その後ブリットポップあたりから少し遠ざかってしまったのですが...それまでは発売日に買っていたので、私にとってはリリー・フランキーさんも佐々木敦さんも小田島隆さんも「クロスビートの人」、そして美馬亜貴子さんといえば、私にとっては「クロスビート編集部のトッド・ラングレン理解者」でした(偏向しています/陳謝!)。

いまでこそトッドはそれなりに“偉い人”ですが、1980年代中頃、少なくとも私の周囲には話題にする人など誰もいなくて「ヒーリング」「黄金狂〜」「ア・カペラ」「Oblivion」「POV」あたりを輸入盤屋で見つけては1人聞き(寂)。風向きが変わったのは過去のアルバムCD化/ワンマン来日...あっ、トッド話はまたの機会に。とにかく私は美馬さんの書いたトッドの記事を熱心に読んでいました(最近もご自身のブログにエントリーが)。そんな美馬さんの掌編小説を小誌に掲載できて、嬉しい限り!!

現在はフリー編集者/ライターとして活躍する美馬さんの寄稿作は、還暦を迎えた独身女性の心象をSNSとからめて描いたもの。私は作者の主人公への目線が一筋縄ではなくておもしろかったです。「自分の名前を看板にしている人」の内面に寄り添いつつ少し距離を置いて眺める、みたいな。この観察スタンスって、曲者ミュージシャンなどへのインタビューで体得したものかな。「看板にしている人」をただおもしろがる(消費する)だけ、とはちょっと違う、リスペクトのニュアンスが伝わってきたのです。作中に登場する「二○代の女性編集者」というのがスパイスのように効いていて、「さすがワカコさん」なんてためいき付いちゃうような態度じゃ、「看板にしている人」の心は開きませんよ、みたいな。

小誌寄稿とほぼ同時進行で責任編集を務めた『テクノポップ・ディスクガイド』が大好評、そして2002年からのフジロック・フェスティバル・オフィシャル・パンフ編集長としての仕事など、多忙を極める美馬さん。ぜひ今後も創作文芸での作品を発表してほしいと願います。そしてトッドpro.のこのスピナーズの曲、すごくトッド色が濃くて(まだその話か...失礼しました)。

 ワカコの朝食は、留学時代のフランスでおぼえたクロックムッシュ。ハムとチーズを挟んだトーストに、瓶詰めのベシャメルソースをかけて食べる。「七○年代から朝食はずーっとこれ」と言うと、二○代の女性編集者がためいきのような声を漏らして感心した。
「さすがワカコさん、昔から食べるものもオシャレだったんですねぇ。優雅です」。ワカコは思わず吹き出した。「これはね、時間がないときに慌てて食べるものなのよ。日本の牛丼みたいな感じですね」
 謙遜でもなんでもなく適切な説明をしたつもりだったのだが、その女性編集者は「これをそんな風に言えるっていうのがオシャレ過ぎます!」と、ますますテンションを上げてしまった。
 
 ワカコがすること、身につけるもの、そして言うことさえも、すべてが「オシャレ」で「カワイイ」らしい。もちろん人様にそう思われることが仕事なのだが、こんなことまで褒めちぎられると困惑してしまう。ワカコが欲しいのは社交辞令やピントの外れた賛辞ではなく、客観的な「真実」だから。〝先生〟と呼ばれるようになって久しい今は、ことさら真実と向き合うことを恐れないようにしている。
 その点、近頃のワカコが頼りにしているのがFacebook だ。〝友達〟は二二三四人。先日はサボテンのとげの部分にスワロフスキーのビーズを通して、クリスマス・ツリーに見立てた写真をアップしたところ、一三○○件以上の「いいね!」がついた。ところがその翌日に上げたラテアートの写真では三七八件にとどまった。直接の知り合いではない人が多いだけに、凡庸なものには容赦がない。そのドライな感じが気に入っている。自分のセンスにはもちろん自信を持っているけれど、ここでの「いいね!」の数が、ちょっとしたバロメーターになっているのも事実なのだ。
       ◆
 里中が押さえた会場は、成城にある一軒家を改装したレストランだった。会費の一万円を払えば誰でも参加できる形式にしたため、事前にだいたいのゲストの数を予測しておく必要があったのだが、里中の読みは一○○人程度、というものだった。一○○人!?
 ワカコは自分のこれまでのキャリアとFacebook の未知の友達の数も鑑みて、一五○人を下回ることはないと予想していただけに、里中の甘い見積もりに侮辱されたような気分になった。事によっては二○○人近く来てくれるかもしれない──それが日々感じていた「いいね!」の〝手応え〟だったからだ。

ウィッチンケア第5号「ワカコさんの窓」(P050〜P058)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/06

vol.5寄稿者&作品紹介06 開沼博さん

それなりに生き存えているので、好景気な時代も不景気な時代も覚えています。...たしかに1980年代後半は世の中の表層までギラギラしていて、ええ、当時20代後半だった私も、端っこを擦りました。詳しいシチュエーションはここでは言えませぬが、金曜日の夜、タクシーが捉まらなくて入った赤坂の寿司屋のカウンターで、年下の某美人が水槽にへばりついた鮑を指差して「あれ食べたい♥」と言うと、すぐに目の前に運ばれてきた、みたいな。

経験則で言えそうなのは、メディアって「ほんとうに好景気の最中にはそのことについて直接言及しない」ってことかも。たいがい、不景気が始まった頃になって「じつはあのときは、...」みたいになるような。でっ、でも好景気は必ずリアルタイムでメディアにも影響(恩恵!?)を与えていて、あとになって検証すると、その頃の話題や人気者がけっこうバブリーだったり(だいたい鼻の利く人はだんまりで売り抜けてしれっとしてたりする)。

バブル崩壊以降の日本経済は「失われた20年」と呼ばれているんでしたっけ? 1984年生まれの開沼博さんは、自身が社会と関わるようになった、いわゆる「ゼロ年代」の「失われっぱなしでもなかったような風景」を個人の記憶から思い起こして、小誌今号の寄稿作にまとめてくれました。いまは強気の首相が「三本の矢」で景気回復させて、みたいにメディアが報道していますが(よくわかっていませんが...)、しかし最近になって急に東京のどこもかしこも工事だらけというのは...まさか昨日今日(比喩!)に用地買収/設計したはずはないんで...少なくとも10年スパン!?

「ゼロ年代に見てきた風景」が遠くない未来、「いまだだんまり状態のメディアが『じつはあのときも、...』と言い出し始めるきっかけ」のような書籍にver.アップして登場することを、発行人は願っています。ゼロ年代のジャーナルな個々の事象が社会学者・開沼博さんによって分析され、どのように再定義されるのか? 作品内にはテツandトモも登場しますが、個人的には下積みの長かったお笑いさんがドドッと世に出てくるときって、たいがい「密かな好景気」なんじゃないかな、と思っていたり。

 日本のITバブルは2000年3月にあっけなく崩壊した。ただ、Yahoo! JAPAN、ソフトバンク、楽天、サイバーエージェントなど、現在も国内で主要IT企業として君臨する企業がこの渦の中で生まれている。そして、その中からトリックスターとして飛び出してきたのが堀江貴文率いるライブドア(オン・ザ・エッヂ)であり、2004年のプロ野球新規参入騒動、2005年のニッポン放送買収事件、衆議院選出馬、そして、2006年のライブドア・ショックへとつながる一つの系譜を作っていった。それは、決して国内のガラパゴス的な動きとしてではなく、2007年から明らかになっていたサブプライム問題、そして、2008年のリーマン・ショックにつながるグローバルな社会変動と照らし合わせながら考えるべきことでもある。

 さて、なんで私が急にこんなチラシの裏にでも書いておけばいいような個人的な思い出をここに書いたのかということに最後触れながら締めたいと思う。本稿を書いた背景には、ゼロ年代史をいずれ書きたい、書くことになるだろうという予感の中で、少しだけ自分の実体験と思考を整理したかったという動機がある。2014年はじめの現時点において速水健朗『1995年』(ちくま新書)や鈴木智之『「心の闇」と動機の語彙』(青弓社)のように90年代史を振り返ろうという一つの流れが生まれているように感じる。私は、その上に、まだ早いかもしれないがいつか、ゼロ年代史を記述したいと思っている。
 いわゆる論壇の中で「ゼロ年代」と言えば、少なからぬ人が東浩紀さんや宇野常寛さん、濱野智史さんらが中心となって作品を生み出してきた情報社会論・コンテンツ論系の議論を思い浮かべるだろう。あるいは、歴史認識論争の末期や9・11からイラク戦争に向かう流れ、小泉政治や北朝鮮問題といった断続的に起こってきた個別の議論を上げる人もいるかもしれない。
 しかし、おそらく、そうではない「ゼロ年代」があるのではないかと私は思っている。


ウィッチンケア第5号「ゼロ年代に見てきた風景」(P042〜P049)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/05

vol.5寄稿者&作品紹介05 枝野幸男さん

同人誌的な結束力より「開かれた場(メディア)」を志向してみたい(でもややっこしいのを)と思って小誌は創刊しました。念頭にあったのはハル・ウィルナーがプロデュースした「Music of Kurt Weill」「Weird Nightmare: Mingus Medita」のようなアルバムで、これを文字中心の印刷物で展開するとなると、どうしたものか。

前号ではアイドルの滝口ミラさんに寄稿依頼しました。じつは今号でも寄稿を打診したんですよね、昨年の晩秋に。でもそのときの事務所からのお返事は「...ちょっと、いま...」でして(おめでとうございます!)。なんというタイミングだったことか、ほんとうにびっくりしました。

今号への枝野幸男さんからのご寄稿についてはネットニュースで報じられたとおりです。発行人は寄稿作品でAKBを題材にどのような論が展開されているかを、1人でも多くの方に読んでもらいたいと願っています。そしてSNS経由で小誌を「アイドル専門誌」と誤解している方がいれば、違う、と。

寄稿作内で枝野さんは<平成の日本で、世代を超えてヒットした流行歌はSMAPの「世界に一つだけの花」だけ>(論旨)と述べていて、私も同じ認識です。「夜空ノムコウ」もかな、と思いましたが、あれはもうちょっと「若さ」に敏感に世代の歌かな。そしてそんな私は、今回初めて「さよならクロール」のPVをYou Tubeで視聴してみまして、まさに枝野さんが「前田敦子さんの顔と名前も一致しない人が多数ではないだろうか」と指摘したとおりでした(知らない人がたくさんいた...)。

 品質を高くするだけでは売れない。ましてや流行歌の世界では、欧米という圧倒的な権威が存在し、Kポップがどんなに完成度を高めても、欧米を超えることはできない。いくら足を長くしても、欧米人のスタイルには(現代の美的感覚では)かなわないのだ。
 とある先輩が、「AKBなんかよりKポップの方が良いだろう」と言ったので、私は「香港とシンガポールのどちらが好きですか」と聞いたことがある。予想通り答えはシンガポールだった。しかし、シンガポールは、どんなに頑張ってもニューヨークにはなれない。完成度を高める戦略は、先行する欧米に近づけても、追い抜くことはできないのである。むしろ、日本の国内やアジアの多くの国では、欧米とは異なる売りをつくることにこそ可能性があると思う。シンガポールやKポップのような欧米基準の完成度を競うのではなく、香港や歌舞伎町のようなアジア的猥雑さや、遅れて成長しているがゆえに好感を持たれる成長プロセスなど、欧米にない「何か」を上手に生かすことに活路があり、それに成功したのがAKB戦略である。

 私は、かねてより、少量多品種こそ日本の活路であると訴えているが、これも、AKBが具体化している。大量生産を可能にすることは、「誰にでも作れるようにする」ことと近似する。特別の人でなければ作れないのでは、大量生産は困難である。だから、大量生産が可能な分野では、人件費の安い新興国に、日本はかなわない。他方で規格化できない少量生産は、作り手の技術・能力が影響しやすいし、高めの価格設定が可能な場合が多い。ニーズに対応して多品種を少量ずつ作ることで、人件費に見合う高い価格を設定することが可能になるのだ。したがって、これからの日本の輸出戦略では、少量多品種分野を拡大することが不可欠である。


ウィッチンケア第5号「歌は世につれ。〜秋元康・AKB戦略と日本経済〜」(P036〜P040)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/04

vol.5寄稿者&作品紹介04 後藤ひかりさん

号を重ねるごとに掲載作品とページがじわじわ増えているウィッチンケアですがじつは寄稿者の平均年齢はずっと下がり続けていまして発行人はそのことにわりと意識的でして「いいことだ」と思っています。

後藤ひかりさんは1993年生まれ...私と同学年で一番有名な方(皇太子徳仁親王)の、ご成婚の年ではないですか! 当時の週刊誌のグラビアに、独身時代の小和田雅子さんのカーステレオの写真が掲載されていて、カセットテープにスパンダー・バレエやデュラン・デュランと書き込まれていて「けっこうブリティッシュ!」と思った記憶...そうかあれが1993年か(遠い目)。

昨年の夏、後藤さんが「後藤ユニ」名義で出版した「サマーバケーション イン マイ ヘッド」をタコシェで入手しました。奥付を見ると第一刷発行が2012年9月で、その後同書は第18回中原中也賞の最終選考のひとつになり、増刷されています(私が持っているのは2013年3月の第二刷)。素っ気ないくらいの装丁なのですが、ページを開くと後藤さんの言葉、コトバ、ことば。ここは文芸評論の場ではないので私の第一印象だけ記しますが、冷静沈着な視線に圧倒されました。いわゆる「ポエム的」な展開とは対極というか、絵は浮かんでくるのですが、決してJぽっぷ的な情景ではなく、言葉が「描かれているもの」を支配しているというか。

「冬の穴」でも後藤さんの言葉は「てにをは」に至るまで精緻でして思い返せば1993年の私はもうすでに言葉でごはんを食べていましたがもっとぼんやりした意識で文字を組み合わせてなんとなく文章をつくりあげていたような記憶しか残っていないのでした。

 長く停まるというのでそっと電車を降りて駅のホームに立つと、火照ったほおにしっとり湿ったつめたい空気が張り付いてきて気持ちがいい。車内は誰かの食べた弁当やコーヒー、汗や香水の混じったようななにか不潔なにおいで溢れていて皮膚の下がむずかゆくなる。でも2時間3時間と乗るうちに、この空気の中で育ったような気持ちになってなにも分からなくなってしまうものだ。そと、という言葉がホームに立つわたしの鼻から入って脳みそを突き抜け大きなため息になって口からでた。静かだね。何かが壊れてしまったあとみたい。線路につもった白くつめたい故郷のイメージを見ているとむずむずして吹き出してしまいそう。故郷という言葉も、引っ越しのときにかびくさいタンスから出てきた写真のように手に取るとむずがゆくなってしまう。自分が生まれ育った土地をあらわす言葉はどれも安っぽいドラマがおまけでついてくるので難しい。故郷、郷土、ふるさと、まんが日本昔ばなしに出てくるような濃いグリーンでベタ塗りされた里山のイメージ。ウサギとタヌキが手をとって踊っている。里山なんてものはほんとうはどこにもないのに、わたしたちが生まれたときはどこでもそうだったように日本人に刷り込まれた架空のふるさと。雪はCGゲームのように規則正しくあらゆる方向へなめらかに動いて消える。るるるるるるるるるるるるるるるる。るるるるるるるるるる。鼻先が湿ってつめたくなっているのが分かる。わざとはーっと声を出して口からけむりをあげてみる。ははは。ぽっぽ、ぽっぽっぽっぽっ、ぽっぽっぽっ。雪は天国のほこりなのかな。知らない土地のことを想像するのは楽しい。天国というのはいつでも電車で行ける場所にあって、そこにはほんとうのことだけがあるという。サトヤマも一種のテンゴクのようなもので、それならどこにも見当たらなくても当然だ。

ウィッチンケア第5号「冬の穴」(P030〜P034)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/03

vol.5寄稿者&作品紹介03 我妻俊樹さん

なにしろ我妻俊樹さんの今号への寄稿作はのっけから穏やかではなく(ほんとうは私がつまらない紹介をするより作品を読んでもらうのが一番なんですけれど)、えっ!? 我妻さん、ついに世の中にコミットしますか、と驚いたものでした。原稿を受け取ったのは東京に大雪が降ったり細川/小泉連合が反原発で不発だった頃...もうずいぶん前のことのように感じますが(って毎年同じようなこと言ってる)。とにかく、冒頭も引用してみましょう。

「このところ我が社会にはさまざまな議論されるべき問題が生じている。そして現実に議論はそこかしこに巻き起こり、無数の熱意あふれる論客たちによってほとんど寝食を忘れて論争が戦わされているのだが、いっこうに出口が見えてくる気配がないのが現状である。」...これが怪談や短歌の人・我妻さんの最新作の書き出しだったのですから、思わず電話してしまいましたよ(なにを話したかは秘密)。

しかし全部読み通してみれば、今回もやはり小誌創刊号から寄稿してくださっている我妻俊樹さんの作品。「雨傘は雨の生徒」「腐葉土の底」「たたずんだり」「裸足の愛」と積み重なっってきた作品群、そろそろ1冊の本にまとまったものとして読みたいのです。たとえば「実話怪談覚書」シリーズでの我妻さんファンは、小誌で展開されている作品をどう読むのだろうか、興味津々。

そして「雨傘は雨の生徒」掲載の小誌創刊号、これまで自主流通のみでしたが、書籍コード(ISBN)が発行され書店でも入手可能になりました(978-4-86538-014-9)。こちらもぜひよろしくお願い致します。ということで、以下は小誌第5号掲載作「インテリ絶体絶命」からの引用。

 そこでエリート社会の独自のネットワークを使って調査してみたところ、ある人物の存在が視界に浮上してきた。その人物はきわめて聡明かつ情熱的だが、まだ世の中にさしてその能力を知られてはいない。彼の名前を仮に〈田母神俊雄〉としよう。彼こそはあらゆる困難な問題に解決をもたらし、すべての凡庸な議論を即刻停止して彼から直接結論を聞き出して盲目的に実践すればこの社会に革命が起きるということが誰の目にもあきらかな、真のインテリ人間なのだ。
 凡人が何億人集まって知恵を絞っても出てくるのは「東京オリンピック反対」「原発反対」「憲法改正反対」といった戯言ばかりである。まるでそうした考えがウイルスとして空中からばら撒かれたかのように大衆は一定の思想に染まり、お茶の間で茶碗を箸で叩きながら反権力の大合唱を始めてしまう……。私もエリートの一人としてそのことについてはかねがね憂いているのである。このままでは世の中は大変なことになる。
 そこで真のインテリである田母神氏に独占インタビューを敢行して冊子を作り、それを戸別に無料で郵送するなどして、我々の進むべき道を全国民に示す必要に迫られた気がしてきたため、ある朝私は会社へ向かう列車のドアが閉まる寸前に衝動的に飛び降りた。
 するとそこは、聞いたことのない駅名の掲げられたプラットホームで、周囲にはぼんやりとした視線をさまよわせる三十代くらいの男女が突っ立っていた。
 たった今電車から降りたばかりのはずなのに、こいつらは何で出口をめざして歩いていかないのだ? 私は苛立ちを覚えながら人々の間をまるで海底の海草の森をかきわけるかのように避けながら階段を目指した。なぜか階段もまた似たような表情の男女の群集に埋められており、非常に歩くのが困難である。


ウィッチンケア第5号「インテリ絶体絶命」(P020〜P028)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/02

vol.5寄稿者&作品紹介02 木村カナさん

小誌第3号ではパンダ愛、前号では引っ越しに揺れる人間の気持ちを寄稿してくれた木村カナさん。今号の寄稿作を受け取ったとき、編集者である私はサッカーで言えば「ものすごいシュートを蹴り込まれた」、野球で言えば「直球ど真ん中に投げ込んできた」と感じました。たしか、直後のメールに「魂、入ってますね」って返信したのではなかったっけ。

かつてある作家がどこかで「僕のガールフレンドはいくつになってもみんな女の子だ」みたいなことを書いていたのを読んで「参りました」と思いましたが、木村さんの作品内に引用されているキム・ゴードンの「段々と受け身になることを身につけてしまう。見られてる、って意識のせいでね」という部分には、自分には生物的に計り知れない深さを感じました。そして「女子」という言葉については、私は中学2年ぐらいまでなかなか身長が伸びなかったので、女子と聞くと、いまだに自分より身体が大きくてすぐに怒ったり先生に言いつけたり(どういうトラウマ...)、失礼しました。

文科系女子カタログ」への木村さんの寄稿作を再読しました。「色」と「恋愛」のブレ、についての考察などもあり、あらためてドキドキしましたが、それこそ、ブレてないですねという印象。...そして私も変化球で逃げてばかりではなく、最近の体たらくをひとつ晒しておきます、小保方晴子さんの件。最初、記者会見は意識的にスルーして見ませんでした。数日後、「サンデー・ジャポン」で編集されたものを見て、そのときの素朴な印象は「女子が泣かされてる!」だったのですが、しかしいまはSNSという「空気を読む」ためのよいツールがあるのであちこち見てまわり、ひそかに「これは沈黙は金」と思い至ったのでありました。

「本を食べて人のいのちをつなぐ方法」では、本を読んだりなにかを書くことについての印象的な描写もたくさんあります。<キラキラしたきれいな何かが、本として、紙の上に、活字の向こう側にあるんだ>という一節、短くもなく売文業で生計をまかなってきた私には、果たしてそれを信じる気持ちが(この商いを始めた頃から)あるのだろうか、とか自問自答。そしてここ何年かの自分は「読むこと」と「書くこと」をいかに分離させるかについて考えていたなぁ、なんてことも思いました。少なくとも「読んだことについてすぐ書くと、書いてるつもりでも書かされている」のでそれは避けよう、みたいな。

 あれからもう8年も経ったのか……ああもう、なんだかクラクラしてくる。
 何かをしていたと言えばもちろん何かはしていたのだ、いろんなことがあったのだ、たしかに何かをやっていたし、いろいろあったはずなのだが、何もしていないと言えば、何もしてない、のであった。
 そして、本を読むのが好きじゃなくなったようなことを抜かしていたはずなのに、ここ数年はライター事務所と古本屋のアルバイトをしつつ、たまに文章を書いて、どうにかこうにか生きている。
 
 00年代から10年代へ、女の三十代、とはいえ、結婚もせず(ということは離婚も再婚もしていない)、出産も育児も介護もせず、就職もせず(だから退職も転職もない、出世どころかボーナスをもらったことだってない)、起業も開業もせず、物書きを名乗ってはみたものの、受賞はおろか、単著もなく、それ以前に企画はさっぱり通らず原稿は書けず。フリーランスというか、要するに中高年フリーターだよ! 職業についての質問をされると、いつもぐっと詰まっては言いよどむよ! !
 不幸でも不運でもなく、のんべんだらりと暮らしてきて、今年、四十になろうとしている。不惑を迎える、しかし、いかんともしがたいぐらいにあいかわらず惑いっぱなしで、近頃はテレビで生命保険のCMを見るたびにイヤな気持ちになる。年下のライフプランナーに懇々と説教をされるという被害妄想に駆られて、ギャッと変な声が出そうになるのである。


ウィッチンケア第5号「本を食べて人のいのちをつなぐ方法」(P014〜P019)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

2014/05/01

vol.5寄稿者&作品紹介01 柳瀬博一さん

ウィッチンケア第5号のトップを務めてくださったのは柳瀬博一さん。日経ビジネス/日経ビジネスオンライン チーフ企画プロデューサーとして活躍し、書籍編集者としても数々の話題作を手がけています。

柳瀬さんとは昨年6月におこなわれた武田徹さん×仲俣暁生さんのトークイベントのさいにお会いしました。その日の打ち上げで「16号線」の話題となり...いやあ、この問題は昨年6月より町田市(再)在住の私にとってはまったくもって他人事ではなく...その後FBでのやりとりがきっかけでご寄稿いただけることになり、ほんとうに嬉しい限りです。

しかし、16号線界隈で育ち/老い始めてつくづく思うことをひとつ。この地で生活していると「ある種の理不尽なやるせなさ」みたいなものを、笑いや詩情に変換させるスキルが自然と身についちゃうかもしれないなぁ、と。いや私、つい最近も「時刻表では20分に1本は来る」はずのバスを45分待ったり(○中は間引いてないのか、ホントに...)、米軍機の爆音で通話中の電話が聞き取り不能になったり...子どもの頃からちっとも改善されてねーw。

「16号線は日本人である。序論」は大胆で、挑発的で、なにより読んでいて楽しいです。「違うっていうならいつでも反論OK!」という風通しのよさは、寄稿者のお人柄ゆえなのか、と。そして柳瀬さんはプロフィール欄で<今回書いた「国道16号線」話の壮大なる妄想はあるのですが、ほんとは誰かに書いてほしい……。>、と書いていますが、本作がきっかけでさまざまな「16号線」論が広がったり、あるいは文中の<よく中央線カルチャーといわれるが、あれ、「16号線」が八王子から線路をつたって中野あたりまで侵食したもの>に反応した方との文化トークセッションが開催できたり、そんな展開になったらさらに楽しいのに、と思うのでありました。

 ただし、16号線こそが日本であり、16号線こそが日本人である、ということをずっと知っている人たちがいる。
「五感の知能指数」が高い人たちだ。
 彼ら彼女らは脳みそではなく体で知っている。
 日本人がすべて外からやってきたことを。
 ゆえに、常に外からの文化、外からの文明に対して開かれていることを。
 あとから海を越えてやってくる文化文明の影響で、自らを上書きしていくこと。あらゆるものをのみこみ、アレンジし、マッシュアップし、変形させて、なにものでもない「日本」にかえてしまうことを。
 そして。五感の知能指数が高いひとたちは、そんな16号線的なる日本の意味を、価値を、自らの作品で、体現する。
 なによりも、音楽。
 美空ひばりを、裕次郎を、若大将を、ユーミンを、サザンを、エーちゃんを、ストリートスライダーズを、クレイジーケンバンドを、そして大瀧詠一を、戦後のあらゆるヒップな音楽。
 彼ら彼女らの多くが具体的に16号線の場所、16号線の空気を経ていている。ジャズからロックから歌謡曲まで。アメリカ化した16号線が、戦後日本の音楽のターニングポイントをつくった。
 ただコピーをしたわけではない。当のアメリカが生まれる数千年も前から先に存在する「16号線というOS」にアメリカ音楽というアプリケーションソフトをインストールすることで「16号線的」としかいいようのない日本独自のポップミュージックを、五感の天才たちが産み出した。
 それが日本のいまの音楽だ。
 文学でいえば、初期の短編でどこでもないアメリカ的郊外を描いた村上春樹が、そして16号線沿線の美大生でアメリカンカルチャーと土着が入り交じる世界を描いた村上龍が、まぎれもない16号線的作家である。近年でいえば、米軍と古都と三業地と自然とが入り交じるもっとも16号線らしい街、町田=まほろを舞台とした「まほろ駅前シリーズ」を描く三浦しをんもまた16号線的作家である。


ウィッチンケア第5号「16号線は日本人である。序論」(P006〜P013)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/80146586204/witchenkare-5-2014-4-1

Vol.7 Coming! 20160401

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yoichijerryは当ブログ主宰者(個人)がなにかおもしろそうなことをやってみるときの屋号みたいなものです。 http://www.facebook.com/Witchenkare